クイア・プラクティス

ノン・ヘテロの身体障害者。雑文書き。観て読んで考えて書く。それが反応。

私ってクイアだったの?!(今更)

 吉野靫『誰かの理想を生きられはしない』を読んで、改めて気づいたこと、わかったことがあったので、それを書こうと思う。

 30代の私は自分のセクシュアル・アイデンティティを「レズビアントランスジェンダーの交差点である」と決めたのに、10数年後、「…あれ? なんでこういうふうにしたんだっけか?」とド忘れしたのである。だが、この本を読んだときに、某イベントで「FtMトランスだったのが途中で止めた人」がマイクを取り、「自分のセクシュアリティ(今でいうならSOGI)は女性の二重否定だと思う」と言ったのを思い出したのだ。

 「女性の二重否定」とは、レズビアンは「自分が女性で、好きになる相手も自分のことを女性だと思っている(女性の二重の肯定)」が、自分を含めたFtMはそうじゃない…云々。その話を聞いて、「はて、私はどうだろうか?」とちょっと考えてみた。

 私はずっと自分のことを「女でも男でもない」と思ってきた。女性にも男性にも所属意識はない。見た目も同じで、身長は165㎝、体重は70㎏、肩幅は並みの男性よりも広い。髪型も服装もボーイッシュ。女子トイレに平気で入るが、並んでいるとジェンダーポリスらしき余計なお世話的な女性が「ここは女子トイレですよ?」と注意して、「女性ですけど何か問題でも?」と目を見てキレ気味に答える。

 自分で「女だ」と言うのはいいけれど、他人(国家とか戸籍とか世間とか)が「あなたは女だ」と決めつけるのはやめてくれ、と思う。ジェーン・スーが「自分で“おばさん”と言うのはいいけど、他人がフリーライドで乗っかるのは勘弁してくれ」とか、竹中直人が「自分でハゲと言うのはいいが他人にハゲと言われるのは腹が立つ」と言った。“おばさん”“ハゲ”は蔑称なので、蔑称を自分で名乗ってプライドを取り返すのはいいと思う。クイアと名乗る精神とほぼ同じである。

 性自認はOK、では性的対象はどうだろうか。

 30代までは女性(に見えるの)が性的対象だったが、いまでは肌のきれいな10代男子もイケるようになってしまった。性は可変なのである(「誰専」なわたし)。わたしの場合、性的対象が先行するのはジェンダー(社会的性役割)であり、その後セックス(身体的性役割)がくるから、自分でも不思議なほどクイアだと思っている。いまの時代で本当によかった。

一方、FtMトランスジェンダーとは何が違うのか。私は自分のことを「女でも男でもない」と思っているが、FtMは「自分は男だ」と思っていることだ。

「そうか、私はレズビアンではないな」と思い「トランスでもない」と思ったのである。それで「レズビアントランスジェンダーの交差点」ということになった。

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 もう一つ、ポリアモリーについて。mixiグループでは異性愛者(既婚者)ミックスで討論したが、今は分けて考えよう。

 ポリアモリーとは、複数の人たちと(性的なものを含めて)お付き合いをすることである。反対に「付き合う人はたったの一人」との信条を決めるのはモノガミーである。

 これは、パートナーに隠れてこっそり、というわけにはいかない。付き合う前に「非異性愛者/異性愛者だから」と宣言するように、「ポリアモリーだけど大丈夫?」との確認は必要だ。

 それゆえ、既婚者のポリアモリーは卑怯だ、と怒るのは当然である。誰も擁護しない。「浮気」であり「不倫」であり「愛人関係」である。あるときは冒険しておいて失敗したら(別れたら)暖かい家庭に戻る。キープはそのまま、でもたまには浮気したい(女房以外とセックスしたい)。浮気相手には「独身だよ」「いま妻と離婚争議中」とか何とか嘘ついて、自分の性欲だけをひたすら突き進む。「俺の浮気はいいが妻の浮気は絶対に許さない」という超わがまま、性風俗に金を払わない超ドケチ。まぎれもなく“なんちゃってポリアモリー”だ。もしかすると既婚者のポリアモリーは可能かもしれない(あえてそういう契約をしているかもしれない)が、たとえ女性であっても、そもそも異性愛者だから私はNGである。

 このことを混同して「ポリアモリーの非異性愛者は卑怯」と攻撃するのはやめてほしい。そもそも非異性愛者は婚姻不可能だし、たとえカップルで同棲してても実際(法的に)はシングルである。ポリアモリーなのは私と相手との性愛関係であって、他者に非難される謂れはない。

 九鬼周造という日本の哲学者がいる。彼の母親が妊娠中に岡倉天心と浮気するという幼少期の経験もあって、ドイツやフランスに留学したときは派手に女遊びをし、生涯独身で子どもはいなかった。代表作『「いき」の構造』では「原始偶然」「偶然を重ねれば必然である」などなど難解な言語と文章があるが、私は「偶然性(運命)」というワードにかけてみようと思う(まず『偶然性の問題』を読んで理解してから書け!)。

 婚姻制度は「偶然性(運命)を否定する」ものであり、日々の生活は安泰だが平凡で退屈だ。婚姻した後で出会った相手とは性愛の営みも重婚もできない。生まれたときからすでにこの制度(法)はあり、後で法を変えることは不可能に近い。だからといって運命の出会いを開くために常に独身でいるわけにもいかない。異性愛者たちがこぞって結婚相手を見つける熱心さには頭をひねざるをえないが、異性愛主義の熱烈な信者だから、すでに逆洗脳はできないと思う。

 50歳の私は独身だが、すでに「パートナーはつくらない」と決めている。部屋に誰かいたらウザいし、言語障害があるので喋ると脳が疲れる。二人でいるより一人のほうが気楽で安心。非異性愛者でよかったとつくづく思う。

最初は同性婚も関心があったが、考えるうちに「…あれっ? パートナーって何だろう…?」とゲシュタルト崩壊し、しまいには興味がなくなってしまった。同性婚は消極的に賛成だが、異性愛婚のように「一夫一婦制」になったら速攻で猛反対するし、そもそも戸籍制度に反対なのでやっぱり反対だわ。プライベートな関係を法律で一方的に決められるのは勘弁。相手と相談して決めればいい。カスタマイズできる関係が理想的である。

万が一、好きな人に出会えたら、その相手がポリアモリーだったら私は受け入れたい。逆にモノガミーだったら、私もモノガミーになろう。偶然の出会いは柔軟に、臨機応変になるものだ。

後は「偶然性の問題」を読んでからにする。

 

(2020年11月21日)