クイア・プラクティス

ノン・ヘテロの身体障害者。雑文書き。観て読んで考えて書く。それが反応。

母の不在、<娘>の不在

Girl(2018、ベルギー)』鑑賞。途中で観るのが耐えられなくなり、途切れ途切れに鑑賞終了。

 この作品の成り立ちは複雑で、ルーカス・ドンは監督を務め、脚本はドンともう一人が執筆した。ドンが作品の着想を得たのは、ベルギー出身のトランスダンサー、ノラ・モンスクールとの出会いであり、おそらく監督がノラをインタビュー取材したものと思われる(ノラ以外にもトランスジェンダーや医療従事者に取材を行っている)。したがって、どこまでがノラの実体験(事実)なのか、どこからが監督の脚色・編集(想像)なのかを判別しがたいが、どちらにしても作品が何を語ろうとしているのかを、わたしは探りたい。

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 ベルギー出身のララは、ダンス学校へ通うためフラマン語圏の街にやってくる。ララは15歳、弟は6歳で、ララのトランスについて理解のある父親がいる。母親は離婚したのか死別したのかは語られてないが、ララは母親代わりに弟の世話をしている(ここで「ヤング・ケアラー」の問題も起こるだろう。ララは自分自身を充分にケアすべきである。経済的余裕があれば弟の面倒をみるシッターを雇えばいいが、ララはそれを断っているかもしれない)。
 父親はララのホルモン補充療法(Hormone replacement therapy、HRT)も、これから行う予定の性別再判定手術(sex reassignment surgery、SRS)も応援しており、ララが主治医と話すときには必ず付き添っている。彼はララに「何か話すことはないか?」と常々言っているが、ララは「大丈夫」と無表情に答える。
 しかし、父親は何の疑いもなく、ララの言葉を文字通りに受け取っている。ララと父親の関係がいつからこうなったのかは不明だが、ララの本心は父親にはわからない。父親が鈍感なのか、ララが言葉足らずなのか(あるいはララは父親に心を閉じているのか)、曖昧だ。
 父親にできることは経済的問題を解決することで、ララの心理的精神的ケアをすることではない。実際、彼にはそれができないのだ。父親は家で恋人らしき女性と一緒に夕食をとるが、それをララは目撃している。なのに父親は一切気まずいそぶりも見せない代わりに、彼女をララに紹介しない。ララもよそよそしげだ。いったいなぜだろうか。

 

しかし実際には、彼は容易に威圧されはしなかった。彼は安全を破壊するために二つの方策を用いた。ひとつは他人に対する外面的な従順である。第二は彼の心の中で他人へと振り向ける精神的メデューサである。この二つの方策を併用することによって、決して露わになることのない彼の主体性、それゆえ決してそれ自体として直接表現されることのない主体性は、安全に守られるのである秘密であるから安全なのだ。どちらの方策も、吞み込まれ、非人格化されるという危険を避けるためである.
R・D・レイン『引き裂かれた自己』第3章 存在論的不安定、1965)

 以上は、28歳の男性の述べたことである。彼は既婚者であり、彼がいつも口にする不満は、自分は「人間」になることができないということであった。彼には「自己がなかった」。「私は他人に対する反応にすぎないのです。私にはアイデンティティというものがありません」。「私は大海に漂う木片にすぎません」。
 わたしは、統合失調症の疑いのある彼とララを混同するわけでは決してないが、この引用は、ララの心象風景と似たところを感じる。ララはダンス学校であったクラスメイトの無遠慮で残酷な言動で傷つかないはずがなかったし、その事件を相談する父親も、心を正直に打ち明ける当事者団体もララにはなかった。ララは孤独で孤立していた。いつのもようにララは、他人の心ない言動に平気なふりをしていた。だがある日突然、我慢の限界がきた。グラスの水が表面張力で満たされすぎているのを、ある瞬間から、グラスから水が零れ出すように。
 この作品はシスジェンダーの批評家には「概ね好評」だったが、トランスジェンダーやクイアの批評家には厳しい批判が多々あった。具体的に、英国映画協会のウェブサイトでトランス女性批評家キャシー・ブレナンは、「上映時間中、ドンのカメラは嘆かわしい好奇心をもってララの股間に執着する」「『Girl/ガール』のカメラの眼差しはシスの人物のものである。それはシスの観客が私のような人を見るようにちょうど一致する。彼らは私の顔に向かっては微笑んでも、内心では私の股間には何があるのか思案しているかもしれない」と記した。性器の切断場面については、「本作が描写する資格を得ていない、深刻なトラウマのシーンである。ドンの性別違和描写は性器に固執しており、トランスの少女の内面の心理的な様相について何ひとつ明らかにしない。それを一つの自傷行為に矮小化してしまうことは、映画的蛮行である」「トランスの身体に対する不快なまでの執着」。研究者エロイーズ・ギマン=ファティは、「本作の視点は『シス中心的』で『おそろしく男性的』であるとし、『映画の主体であるべきララのキャラクターが客体となってしまった』」と述べた。ベルギーの団体ジャンル・プリュリエルのロンデ・ゴッソは、「これはこの国の現実、社会の連携、若者の貢献、私たちがこの11年の間にやってきたことのすべてをなおざりにしています。私たちの存在を押し出すのではなくむしろ見えなくしてしまいます」と語った。TheWrapのスティーヴ・ポンドは、映画は「突然そうでなくなるまでは静かな映画、極限の領域に踏み込む穏やかなキャラクタースタディ、受け入れられることにまつわる話かと思いきやそれがいかに不可能かの話になりかける痛ましいドラマ」であるとし、「終盤には、この静かな映画は恐ろしい苦痛と絶望の場所へ向かう」と記した。『ロサンゼルス・タイムズ』のキンバー・マイヤーズは、主人公の身体に重きを置く本作の撮影は「共感的というよりは搾取的に感じられる」と述べ、「最も問題なのは、映画終盤のショッキングな場面の無責任な見せ方である」「ドンの作品は技術的な面からすれば強力なデビュー作だが、この手の物語に必要な慈悲に欠けている」と記した。実際、ララはSRSの前に自分のペニスをハサミで切り取った。それも事前に救急車を呼ぶよう連絡済みだったのだ。
 ララが言わんとしていることはわかる。父親は頼りにはならない、と。
 この作品が監督の主観なのか、それともトランスにまつわる総合的な語りなのかわからないが、とにかくここで言えるのは、トランスの家族は機能不全家族だということだ。これはトランスに限ったことではないし、家庭の貧富の差は関係ない。裕福な家族でも夫婦・親子関係はすでに破綻していることもある。「家族神話」はすでに崩壊しており、家族(両親)が子どもに矛盾したメッセージを送り込み(ダブルバインド)、抑圧され、混乱しているのだ。
 トランスに限らず機能不全に陥った家族を持つ子どもは、ただちに逃げたほうがいい。「いい子」でいる必要はない。自分がいなくなれば弟はどうなるのか、そんなの知ったことではない。ただでさえ子どもは精神的にも身体的にも不安定だ。その不安定を、親が追い打ちをかけるのである。
 かといって、子どもには母親が必要かどうかもわからない。日本では最近になって母と娘の桎梏葛藤が台頭はじめたが、欧米では昔から問題になっている。その問題とは、母と娘が同じ身体を持っている(月経、妊娠、出産など)という説が主だ。父と息子のとの関係は問題がない。男同士なら安易に連帯できるが、父と<娘>の関係は問題以前である。父は母ほど敏感ではないし、母ほど先回りできはしない。

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 結局、ノラ・モンスクールはどうなったか。プロのバレリーナを目指した彼女は、コンテンポラリー・ダンサーになった(ある意味それはノラにとっての希望/絶望か、はたまた諦念/解放か)。西洋にとってのバレリーナは、日本にとっての歌舞伎のようなものだ。古典になればなるほど男女差別が激しくなる。特に女性は、身体的犠牲がかなり高い。トゥシューズに固定されたつま先は、傍目には美しいようでいて実際には残酷である。まるで白鳥が水面で優雅に泳ぐが、水面下では水かきを必死にかき回しているようだ。トゥシューズは中国の纏足と同様である。男性から見れば性的魅力は高まるが、女性がそれをするのはひどく苦痛だ。その違いがわかっていない。シス男性の監督がトランス女性についての映画を製作すべきではなかったのだ。

 話を元に戻そう。学生から時が過ぎて、少し大人になったララが歩いていくラストシーンである。そのBGMが『オン・ブラ・マイ・フ』だ。この曲は『ナチュラル・ウーマン(2017、チリ、ドイツ、スペイン、アメリカ)』のラストで主人公の歌姫マリーナが歌った。

この演出は、ドン監督が模倣したものか、あるいは別な意味を持つものなのか。
ナチュラル・ウーマン』では、マリーナの最愛の人オルランドが亡くなって、その喪失と哀しみの余韻を少しも味わわないまま、かつて二人で暮らした部屋を遺族から追い出され、オルランドの離婚した元妻に通夜にも葬儀にも来るなと言われ、オルランドのチンピラな息子と仲間に街から追放されそうになって、「私にもお別れを告げる権利がある」と抗い、やっとのことで葬儀場のオルランドを見て、焼かれるところから見守り、マリーナにとっての“別れ”をついに切り出した。それがナイトクラブで歌った『オン・ブラ・マイ・フ』である。オルランドとの愛の生活は、ペルシャ王セルセにとってのプラタナスの“木陰”だった。ただ、その“木陰”は、オルランドの死によって失われてしまう。いまは失われてしまったが、あのときは本当に“ナチュラル・ウーマン”になれた。オルランドと一緒にいると、本当に“ナチュラル・ウーマン”になれたの…あの“木陰”は本当に心地よくて、優しくて、愛しくて…

 百歩譲って、この作品におけるラストの曲を、ドンのオリジナルの演出(解釈)とする。プロのバレリーナになれなかったララは夢を諦めて、コンテンポラリー・ダンスの道に入った。同じダンスでも古典的なバレエの振り付けや様式は雁字搦めだし、コンテンポラリー・ダンスのほうが自分の思うとおりにやれる解放感がある。いまほど自由に生きられる瞬間はない…うう、なんとも苦しい解釈だ。語り部失格である。

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当たり前だが、映画には観客がいて、救済と癒しを求めている。ドン・ルーカスの失敗は、映画をドラマではなくドキュメンタリーにしたいと思っていたが、その切り替えが不十分だったことだ。彼はあらゆる面で“役不足”だった。<やりたいこと>と<できること>は違う。

 一方、FtMトランスジェンダーの残酷な末路を描いた映画ならある。『ボーイズ・ドント・クライ(1999、アメリカ)』だ。ネブラスカ州で強姦され殺害された実在の人物の生涯を描いている。観たときは相当ショックだった。救済も癒しもなく残酷な現実の闇の穴が恐ろしくぽっかり空いていた。同質の集団に“異形の者”がいた場合、そいつが生贄になることがすでにわかっている。わたしたち観客は、その恐ろしい現実をまざまざと“目撃”したのだ。