クイア・プラクティス

ノン・ヘテロの身体障害者。雑文書き。観て読んで考えて書く。それが反応。

本の花束(3)高井としを『わたしの「女工哀史」』(1980、草土文化)

 この本は、高井さんが七八歳のときに出版された自伝です。「女工哀史」という言葉は誰もが知っている、細井和喜蔵『女工哀史』(1925、岩波文庫所収)が出版されてからです。

  わたしはこの本は読んでおらず、幼いころテレビドラマ『あゝ、野麦峠』を観た記憶が朧げにあります。大正末期から紡績業が盛んになり、高度経済成長に合わせて日本の産業は電機・機械工業に移っていきます。都会に製糸工場や紡績工場がどんどん作られ、田舎(貧村)から来た女の子(十五~二十五歳)たちが不潔で劣悪かつ過酷な環境で働かされ、しかも低賃金で、乏しい食事で身体は徐々に衰えていきます。当時の紡績女工は半奴隷状態であり、ある女工結核で死に、ある女工はもっといい働き口がないかと逃亡するという、労働を搾取する物語でありました。高井としをさん自身も、その時代のなかにいました。

 久保さんの読後感はこうでした。「朝鮮人女工はさらに劣悪な条件で働かされ、日本人には口をきいてもらえないような差別的仕打ちをうけていました」「それをみた十二歳(ママ)の少女は、毎晩のように朝鮮人女工たちの部屋にあそびにいきました。そして、朝鮮の乙女みたいに髪を三つ編みにあんでもらったりされるほどまでに、少女は朝鮮人女工たちとすっかり心をかよわせ合うまでになったのです」「少女はそれ以来、そのながい一生のすべてを弱い者いじめとのたたかいでつらぬきとおしたのでした」。「炭焼きの子として生まれ、小学校も三ヵ月しか行けなかった子供時代のことから、女工生活、細井和喜蔵との出会い、晩年の全日自労での活動までを、まさに地の塩として生きぬいてきたひとだけがもつことができる爽やかさで物語っています。サヤ豆を育てたことについてかつて風が誇らなかったように――という中野重治の詩句がありますが、この本は、風のような女性が書いたのです

 毎月連載という文字数の制限がありますが、これでは簡潔すぎてちょっと物足りない、とわたしは思いました。岩波文庫版「わたしの『女工哀史』」(2015年)巻末の解説で、文芸評論家の斎藤美奈子さんはかなりの紙数を割いて、としをと和喜蔵が出会ったこと、本書が出版された経緯や、日本の現代史の事件」「暗部」の顛末を詳細に書いています。ひじょうに大事なことなので、今回は斎藤さんの文章を引用します。

女工哀史』および「わたしの『女工哀史』」は、近代日本の繊維産業抜きには語れない。明治から昭和戦前期にかけて、繊維産業は日本経済の屋台骨を支える一大輸出産業だった。とりわけ第一次大戦後、繊維産業の拡大志向と寡占化は進み、それは一九二〇年代に頂点を迎えた。
 日本の繊維産業は①蚕の繭から生糸をとる「製糸業」、②綿花をつむいで糸にする「(綿)紡績業」、③綿糸や毛糸を織って布にする「織布業」の三部門に代表される。いずれの分野も労働者全体の七~八割が女性で、彼女らの多くが農山村からの出稼ぎ労働者だった。
女工哀史』の出版から約五〇年。高井としをに新たな光を当てたのは、岐阜県の聖徳女子短期大学(一九九八年から岐阜聖徳学園大学短期大学部)の「現代女性史研究会」だった。同研究会は一九七三年に発足。聖徳女子短大の女子学生と教職員十数名からなる自主サークルである。
 当時、聖徳女子短大ほか岐阜県内の女子短大には、午前、午後、夜間の三部制をとり、三年で卒業できるコースが設けられており、県内の紡績工場で働き、寄宿舎生活をおくりながら短大に通う「働く女子学生」が多く学んでいた。研究会の学生メンバーも、そんな「紡績女工兼学生」ともいうべき女性たちだった。
 同研究会の指導的立場にあったのは、当時、聖徳女子短大の教員だった杉尾敏明である。『女工哀史』の学習会などを続けていたころ、伊丹市の全日自労(全日本自由労働組合)を介して高井としをの存在を知った杉尾と研究会のメンバーは、伊丹市のとしをのもとに足しげく通い、詳細な聞き取りを行った。紡績工場での労働という同じ体験を持つ者同士、女子学生たちはとしをに共感を寄せ、またとしをも心を開いて、自身の半生をあますところなく語った。
 この聞き書きを中心にまとめたのが、高井としをが語る『ある女の歴史』全五冊およびとしをの詩歌集『母なれば働く女性なれば』全三冊(いずれも現代女性史研究会編・発行、一九七三~七六)である。各巻三十ページほど。書店には並ばない自費出版物ながら、朝日新聞の家庭欄(一九七三年十月二四日)ほか多くのメディアで紹介されるなど、『ある女の歴史』は大きな関心を呼んだ。
 歴史学者中村政則も『ある女の歴史』に刺激を受けたひとりである。自らも伊丹のとしをを訪ねて聞き書きを行った中村は、『労働者と農民』(一九七六年、日本の歴史29、小学館)に「『女工哀史』異聞」と題した一項をもうけ、本書巻末の詩(『「女工哀史」後五〇年!』)とともに、一労働者から稀有な活動家に育った彼女の半生を紹介。高井としをは近代史を学ぶ人に広く知られるようになった。
 こうした経緯を経て、一九八〇年、『わたしの「女工哀史」』は出版された。『ある女の歴史』に収められたとしをの語りや文章を単行本用に編集し直し、出版に尽力したのは、その後、阪南大学に移籍した杉尾敏明と、草土文化の編集者だった林光(みつ)だった。本は評判となり、四刷まで版を重ねる。としをは各地の講演会に招かれたり、ときにはテレビ出演もした。一九八三年には同じ『わたしの「女工哀史」』のタイトルで「女性の自画像」シリーズ(ほるぷ出版)の一冊にも加えられた。
 それから三十数年が経過している。
 高井としをだけでなく、細井和喜蔵の名も風化しかけている今日、この本から「事件」の匂いをかぎ取ることはむずかしいだろう。
 しかし、『女工哀史』にまつわる重要な問題なので、以下、あえて記しておきたい。本書のベースとなった『ある女の歴史』は思わぬ波紋を広げ、図らずも『女工哀史』発刊後の「暗部」を明るみに出すことになったのである。
 ことは『女工哀史』の「正史」から高井としをが消された理由にもかかわる。
 本書一〇七ページ「内縁の妻」の項を参照されたい。「細井和喜蔵氏未亡人ご乱行」と新聞に書かれた三日後、改造社に印税の相談に行ったとしをは、社長の山本実彦から「内縁の妻」であることを理由に印税の支払いを断られ、また藤森成吉らに再婚も反対されている。抵抗むなしく、結局、印税相当額は遺志会に入ることになった
『ある女の歴史』のそれに該当する箇所を読んで反論したのが、ほかならぬ藤森成吉だった。当時、藤森が会長をつとめていた日本国民救援会の機関紙(「救援新聞」一九七五年十一月五日)に、藤森は「無名戦士之墓前史」と題する激烈な批判を載せている(引用は『ある女の歴史(その5)』への再録による)。
<高井としお(ママ)という女性を、おそらく読者の大部分は知るまいが、これは細井和喜蔵の同棲者で、彼の死後ほとんどすぐ高井という人物と結婚し、以後高井姓を名乗っている。現在七十三歳の老女である>としたうえで藤森は書く。<なぜ遺志会をつくったかというと、前期の如くとしお(ママ)君が早速高井氏と結婚した上、原稿料や印税を湯水のごとく浪費しだしたからで、それでは折角の印税も死んでしまうのを恐れたからである>。としをの発言からも彼女が<細井の遺志を継いで解放運動に使おうなぞとは微塵も考えていなかったこと>は明らかである。<遺志会は、こういうとしお(ママ)氏に反撥(ママ)してつくられたものだから、もちろんとしお(ママ)氏を会員に入れていない>。和喜蔵の遺書も彼女が<そういう物を持っているのは荷厄介だからといって放棄し、代わってぼくが何年間も保管した>のであり、<細井の遺骨を第一号として、「無名戦士乃墓」をつくり、戦後国民救援会の要請に応じて会に寄付したのである>。
 藤森は、遺志会が自分の意向でつくられたとするとしをの認識に異を唱えているのだが、要は「おまえの素行が悪いから、われわれが印税相当額を管理して、解放運動の役に立ててやったのだ」という話である。今日の観点からみて、これがきわめて不当な判断であるのは言を俟たないだろう。彼らがとしをから印税を奪った理由は「正式な妻ではなかった」「入った金を乱費した」「別の男とすぐ結婚した」の三点だが、いずれも彼女から印税を取り上げていい理由にはならない。
 遺志会がつくられた経緯を藤森の説明ではじめて知ったとしをと研究会は、驚いて言葉もなかったらしい。本書では<婦人がこんなに無権利だったことも知らなかった>などのぼかした表現になっているが、としをがこの件にかんして納得していなかったのも事実であり、自分こそが和喜蔵の継承者だとする本書巻末の詩(「『「女工哀史」後五〇年!』)は、そのような無念さを越えた上での言葉なのだ。
 現代女性史研究会の会員で、当時、聖徳女子短大の教員だった高橋美代子は、藤森ら関係者の主張を詳細に検討し、遺志会の判断を<日本の民主運動にとってまったく悲しむべき汚点である>と述べている(『ある女の歴史(その5)』)。
『ある女の歴史』の先駆性は、第一に女工哀史』の裏面史を含めたとしをの人生を詳細に掘り起こしたこと、第二にとしをを「『女工哀史』の共作者」と位置づけ、不当に軽視されてきたとしをに積極的な詳細を与えたことだった。<女工哀史』はまぎれもなく、和喜蔵ととしを氏の共同・共作であり、その権利は守られるべきであり、たとえ「遺志会」といえどもこの権利を侵害することは許されるべきことではない>(『ある女の歴史(その2)』とする杉尾敏明や高橋美代子の判断は至当だろう。
 無名戦士乃墓は、現在も青山墓地の一角に建ち、毎年盛大な慰霊祭が行われている。この墓碑の歴史的、今日的な意義を私は否定しない。しかし、「『女工哀史』の印税によって建てられた」という「美談」の裏に、以上のような事実があったことは記憶にとどめておくべきだろう。本書は『女工哀史』の成立前史とともに、曖昧にされてきた『女工哀史』発行後の歴史を知るうえでも、貴重な証言といえる。

 引用部分と重複するのですが、もう少し詳しく書いておきます。高井としをは十歳で紡績女工になり、労働運動を通じて細井和喜蔵に出会い(事実婚)、事実上の共作者として夫・和喜蔵の執筆を支えました。『女工哀史』の「自序」において和喜蔵は<生活に追われて追われながら石に齧りついてもこれを纏めようと決心し、いよいよ大正十二年の七月に起稿して飢餓に怯えつつ妻の生活に寄生して前半を書いた><女工寄宿舎のことについては、寄宿舎で生活して来た愚妻の談話を用いた>と明かしています。また、関東大震災の苦難のなかで<妻が工場を締め出されてしまって、たちまち生活の道は塞がれた。と、どんなに気張っても石に齧りついても書けないことが判った>とも書いています。

 和喜蔵がとしをとの結婚後に『女工哀史』の執筆に着手したこと、執筆と生活の両面において、彼がとしをに全幅の信頼をおいていたことがうかがえる。
 和喜蔵に資料を提供し、自らの体験を語り、原稿を読んで示唆を与えたとしを。それは伝統的な「内助の功」の範囲をはるかに越えている。後に彼女が「『女工哀史』の共作者」と呼ばれるようになったゆえんである(『女工哀史』の出版からわずか一か月後、和喜蔵は急性腹膜炎で倒れ、二八歳の若さで急死。加えて九月に生まれた長男も一週間後に死亡。二年後の一九二七年、としをは労農党の活動家だった高井信太郎と再婚(法律婚)、高井姓となったが、信太郎もまた空襲による火傷がもとで一九四六年一月に他界。戦後、としをは五人の子どもを抱えて働き続けた)。
 一方、外で働く妻のために、和喜蔵は執筆のかたわら家事一切を担当した。父を知らず、生活苦にあえぐ母や祖母を間近に見、しかも早くから自活していた和喜蔵は、ジェンダー規範に縛られない当時としては珍しい男性で、だからこそ女性労働者の立場に立つ『女工哀史』の視点が獲得できたのかもしれない。
 しかしながら、本書「わたしの『女工哀史』」が出版されるまで(あるいは本書の出版以後も)高井としをに正当な評価が与えられていたとはいいがたい。たとえば文学を通じての和喜蔵の知己・藤森成吉は、岩波文庫版『女工哀史』の「まえがき(1954年)」で『女工哀史』出版までのいきさつを次のように書いている。
<著者細井和喜蔵君は、三十数年まえの或る晴れた日に、突然僕をおとずれ、現行計画のための何十枚もの目録を見せて、ぼくの意見をたずねた。ぼくは一日もはやく実行するように勧めたが、それは三、四年後にようやく成った。/それをよむなり、すぐ改造社社長山本実彦氏へ持ち込み、買い切りの条件で発表の快諾を得、大正十四年七月に出版された。/その条件が示すとおり、この無名の一労働者の体験記録兼調査書は、出版社にとってひとつの冒険だった。ところが、ほとんどすべての関係者の予想に反して、それは異常な売れ行きを示し、何回となく版をかさねた>
 上記に言う「三、四年」の間を埋めるのが、本書で語られた和喜蔵ととしをの生活だったといえるが、しかし、ここに高井としをの名前は一切出てこない。いや、名前が出ないだけならいい。<重版とともに、山本氏の好意で印税相当分が常に細井和喜蔵遺志会(彼の異友たちによって組織された会)へ渡され、紡績や製糸産業の労働者の解放運動のためいろいろ役立った>とはどういうことだろうか。
 そう、後の夫となる高井信太郎が<紡績で深夜業したり、女給までして苦労したのはなんのためなんだ。細井君が死んだら当然本の権利はあなたにあるのだ>と憤慨したように、としをに『女工哀史』の印税は入らなかったとしをは長い間、消されていたのである

 こういう立場に立たされた悲運な女性たちは世界中にいます。なかでも有名なのがカミーユ・クローデルでした。レーヌ・マリー・パリス『カミーユ・クローデル』は映画の原作であり、著者はカミーユの弟ポール・クローデルの孫にあたります。
 カミーユオーギュスト・ロダンの弟子であり愛人でした。家族の関係も複雑で、二人が出会ったとき師匠のロダンは五九歳、カミーユは十九歳でした。彼女は彫刻の才能に優れていましたが、ロダンと別れた後、精神に異常を来たします。和喜蔵が生きていたら、法律婚をしていたら、としをはこんなに苦しめられることはありませんでしたが、ロダンは意図的かつ確信犯的にカミーユを苦しめていました。彼女の生涯についてはまた紹介する機会があるので、この辺にしておきます。

 斎藤さんの解説は、「むしろ『女工快史』と呼びたい」と締めくくっています。「高井としをの生涯に一貫しているのは、その驚くべきバイタリティ」「自身の意見を表明せずにはいられぬ正義感」「誰に対してもものおじしない態度」「『弁護士』というあだ名がついた少女時代から、生活密着型の真っ当な要求をかかげ、ねばり強く交渉し、勝ったり負けたりしながらも、最後は確実に成果を出す」。

 本書の第一の意義は、やはり細井和喜蔵の横顔と『女工哀史』の舞台裏を伝える貴重な史料である点だろう。二八歳で夭折した和喜蔵の人生には不明な点が多く、『わたしの「女工哀史」』以上に詳しい史料はない。「遺志会」の一件も含め、不当な評価を受けていたとしを自身の復権という意味合いも大きい。
 第二には、しかし「細井和喜蔵の妻」という冠を外しても、本書がひとりの女性の傑出した一代記である点だ。戦前は女工として働き、戦争を生きぬき、戦後は日雇い労働で子どもたちを養う。それは昭和の女性労働者の典型的な人生だったともいえる。一九七〇年代は女性史研究がブームになり、また歴史研究におけるオーラル・ヒストリー(文献ではなく口述による歴史)の重要性が認識された時代だった。とはいえ女性の自伝や評伝のほとんどが、高い教育を受け、目に見える業績を残した人物に偏っていることを思うとき、本書の存在価値はいっそう明らかになるだろう。
 二一世紀の今日、日本の労働環境は悪化の一途をたどっている。組合運動にも往時の勢いはなく、「格差社会」が進行中だ。高井としをの人生にはしかし、苦境を切り開くためのヒントが詰まっている。<かっこいい 理くつはいわぬ母たちが 一ばん先に座りこみに行く>というとしをの歌は印象的だ。

 彼女のことを久保さんは「風のような女性」と表現し、斎藤さんは『女工快史』と表現します。どのみち着眼点や表現の違いはありますが、相通じるところもありますね。

(2021年6月4日)