クイア・プラクティス

ノン・ヘテロの身体障害者。雑文書き。観て読んで考えて書く。それが反応。

本の花束(4)大田洋子『屍の街・半人間』(1995年、講談社文芸文庫)

 原爆をテーマにした物語は、こうの史代この世界の片隅に(2011)』が出版され、同年にテレビドラマ化され、2016年には劇場アニメとして公開されました。わたしも劇場に足を運びました。作品はひじょうに素晴らしいのですが、一部の「感傷的(ノスタルジーかつセンチメンタル)」な観客もあり、残酷で悲惨な原爆という記憶を「ふるきよき思い出」として「美化」している、との批判がありました。

 「原爆」といえば、わたしの世代では、小学校の図書館に中沢啓治はだしのゲン』がありました。わたしは全部読んだはずですが、つねに漫画がクラスのなかにあるものですから「いつでも読める」と思い、途中で飽きてしまって、新しい別の漫画に関心が移るのでした。

 8月になると毎度のように「終戦(本当は“敗戦”ですが)記念日」の式典がテレビで放映されます。井上ひさし曰く「なにを言われようと、堂々と大マンネリズムの道を歩いて、毎年8月には、私たちは<ヒロシマナガサキ>のことを語らなければならないのだ」。

 「戦争を知らない子どもたち」であるわたしたちは、ヒロシマナガサキに原爆を投下された体験がなく、「世界で唯一の被爆」でありながら、その自覚はありません。8月になると<いつものアレがくる>と思い、うんざりし、<大マンネリズム>になるのもしかたがありません。

 敗戦後のもっとも早い時期の文学者の発言に、1945年8月30日の『朝日新聞』に載った大田洋子の『海底のやうな光――原子爆弾の空襲に遭って』という文章があります。大田の文章は、ほかならぬ原爆の問題をとりあげての文学者の最初の発言になっている、という点でも核時代のはじまりと日本文学との関係に正確に対応しています。

 8月30日という日は、占領支配にあたる連合軍最高司令官マッカーサーが厚木に到着した日で、つまり米軍による検閲はまだはじまっていなかったから、大田はこの文章の中で被爆の時のすさまじい様子を、経験した通りに書き、それはそのまま発表されました。この少しあと、米軍は原爆被害に関する一切の報道を禁止するようになって、検閲はやかましくなり、1946年はじめに『近代文学』誌にとどけられた原民喜『夏の花』の原稿は、米軍の事前検閲で発表を封じられ、また、45年11月には完成していた『屍の街』も、48年11月になって『無欲顔貌』の章のほか重要な部分の若干を削ってようやく刊行されたくらいでした。

 大田洋子、原民喜のほかにも、ヒロシマに執着した現代作家として井伏鱒二、堀田前衛、大江健三郎阿川弘之いいだ・もも小田実らがおり、詩人としては栗原貞子峠三吉がいます。ほかに劇作家たち、シナリオライターたちもいます。また、ナガサキについては、作家としては林京子佐多稲子井上光晴らがいます。

 大田洋子(1903~63)は、広島で被爆した、戦前から活躍した作家でした。彼女の『屍の街』は、原爆の犯罪性を糾弾した世界で最初の克明で鮮烈な記憶であり、原爆文学の記念碑的作品です。それは、1945年の8月~11月にかけて執筆されたのでした。

 私は『屍の街』を書くことを急いだ人々のあとから私も死ななければならないとすれば、書くことも急がなければならなかった
 当日(8月6日)、持物の一切を広島の大火災の中に失った私は、田舎へはいってからも、ペンや原稿用紙はおろか、一枚の紙も一本の鉛筆も持っていなかった。当時はそれらのものを売る一軒の店もなかった。奇寓先の家や、村の知人に障子からはがした、茶色に煤けた障子紙や、ちり紙や、二三本の鉛筆などをもらい、背後に死の影を負ったまま、書いておくことの責任を果してから、死にたいと思った
 その場合私は『屍の街』を小説的作品として時間を持たなかった。その日の広島市街の現実を、肉体と精神をもってじかに体験した多くの人々に、話をきいたり、種々なことを調べたりした上、上手な小説的構成の下に、一目瞭然と巧妙に描きあげるという風な、そのような時間も気持ちの余裕もなかった。
 私の書き易い形態と体力をもって、死ぬまでには書き終わらなくてはならないと、ひたすら私はそれをいそいだ。

 広島に原爆が投下されたとき、一瞬の閃光のあと、激しい爆風が襲います。広島の街は瞬時にして焼け野原になり、焼けただれた死者が累々とあらわれます。まだ死んでいない被爆者たちも、大怪我や大火傷を負いながら、いずれ死んでいきます。「被爆したわたしもいつか死ぬかもしれない」と主人公はおそれ、「原子爆弾症という恐怖にみちた病的現象」を描いています。

 

 死体はみんな病院の方へ顔を向け、仰向いたりうつ伏せしたりしていた。眼も口も腫れつぶれ、醜い大きなゴム人形のようであった。私は涙をふり落しながら、その人々の形を心に書きとめた。
「お姉さんはよくごらんになれるわね。私は立ちどまって死骸を見たりできませんわ」
 妹は私をとがめる様子であった。私は答えた。
人間の眼と作家の眼とふたつの眼で見ているの
「書けますか、こんなこと」
いつかは書かなくはならないね。これを見た作家の責任だもの」

 大田洋子は、ウラニュームの放射線を浴びて“左の耳の中から下にかけて谷のように切られていた(『屍の街』)”というのに、そのとき蒲団のなかで寝ていたためか、一般的な原爆症になることからは免れました。その意味では、彼女は原爆症患者ではないということが、しばらくして判明しました。

 しかし、それでめでたしということにならなかったのは、あるいはいつの日にか自分も、という疑いを避けられずにいたことと、現に周りの人びとをはじめとして多くのひとが原爆症を発病して死んでいくこと、いまなお戦争の火種はいつもどこかで燃えていること、等は彼女の心を深いところから傷つけてやまず、“原子爆弾から受けた心理の損傷(『半人間』)”はひどくなりました。

「混沌と悪夢にとじこめられているような日々が、開けては暮れる」
「西の家でも東の家でも、葬式の準備をしている」
「死は私にもいつくるか知れない」

『半人間』とは、つまり「廃人」のことです。生きているには生きているのですが、心は死んでいます。心のなかはいつも死の恐怖のことばかり考えているのですから。

広島市が一瞬の間にかき消え燃えただれて無に落ちた時から、私は好戦的になった。かならずしも好きではなかった戦争を、6日のあの日から、どうしても続けなくてはならないと思ったやめてはならぬと思った
…社会不安が全部ではなかった。そこからのがれる道のない、おのれの所属する国家への不信、世界への不信、人間への不信、自分の肉体と精神のぶつかる接触体への不信が、あたまのなかを暗くしているこの不信は自己への不信を裏書きするものであった
…またかと篤子は思った。現在そこにはないものの匂い、かつて体験したさまざまな臭気が、ときどきむかっぽく鼻さきを通りすぎる。最初にきた幻臭は、死体の腐臭であった。夏の日、大量な人間の殺傷によって経験された匂いだった。
 まる七年前に起きたことと、未来への不安な感覚は、日と時間の多少の駆引きにかかわりなく、篤子の心のなかに密着しているものだった

本書の解説に小田切英雄が書いています。

 同じ五四年の秋から『群像』連載がはじまる『夕凪の街と人と』では、“半人間”というデッド・エンドからとにかくぬけ出して、広島相生通りの原爆スラムや基町(もとまち)の戦災者住宅やの人びとの苦渋を描くことに転ずるが、この作家がとにかく『半人間』の制作でひとつのデッド・エンドにおける人間のあるがままの姿の強烈な表現として、それは記憶されざるをえない

 死んだ人間は、まず匂いが強烈だ、といいます。推理物のドラマでも、放置された遺体が発見され、我慢できずに刑事が吐くシーンがあります。ときとしてそれは、「卵か魚が腐ったような、タマネギが腐ったような臭い」と形容されます。『屍の街』で篤子がさまよった街で嗅いだのは、死体の腐臭である“幻臭”でした。

 私は最近、長崎の原爆詩人福田須磨子の必読の無比の書『われなお生きてあり』(筑摩書房刊)が入手困難になっていることを知り、驚愕しました。私たちは、大田洋子や福田須磨子のような人を、二度死なせてはならないのです。彼女たちを忘却することは、まさしく犯罪といわなければなりません。

 ヒロシマナガサキとつづいて、次はオキナワ、そしてフクシマ、コロナウイルスによる世界レベルでのパンデミックがきます。過去のことではありません。歴史は地続きに現在まできています。マスコミの表層的な報道に流されずに、また「すべての報道は“娯楽”」だと思わずに、ほんのわずかに引っかかることがあれば、自分で疑い、自分で考え、自分で調べてください。「大文字の歴史」にごまかされないでください。

(2021年6月12日)