クイア・プラクティス

ノン・ヘテロの身体障害者。雑文書き。観て読んで考えて書く。それが反応。

本の花束(10)福田須磨子『われなお生きてあり』(1977年、ちくま文庫)

 長崎の原爆を題材とした映画や文学はないものかと思い、探してみると黒澤明八月の狂詩曲(1991)』がありました。原作は村田喜代子『鍋の中(1987)』です。私が無知でした。
 広島に原爆が落とされたのは8月6日、長崎は8月9日でした。たった3日とはいえ、「世界で初めて原爆が落とされた国」として圧倒的にヒロシマが有名になったため、ナガサキは比較的影が薄い印象でした。
 ところが、長崎県出身の福田須磨子がおりました。須磨子は当時23歳、勤務中に被爆します。自宅にいた両親と長姉は被曝死しました。翌年、高熱、疲労感、脱毛の症状が出、10年後、エリテマトーデスを発症。病床のなかから詩を綴り、『詩と随想・ひとりごと(1956)』、『原子野(1958)』、『烙印(1963)』を発表しました。原水爆禁止運動に積極的に関わるようになり、自伝小説『われなお生きてあり(1967)』を出版します。

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八月八日――その前日、父との会話でこんなことがありました。「サイパンが敵の手に渡ってからこっち、ずっと負けいくさやがね、転進、転進って何ね、ずっと退却ばかりやかね、東京でも大阪でも滅茶苦茶やられても損害軽減って嘘ばかりやかね、沖縄も地形が変わるごとやられてしもうて、いよいよ日本に上陸するかも知れんと言うところまで追いつめられとっとやろがね、勝ちよっと(勝っている)なら、こんげんことになるもんね」と父が苦々しげに言い、ゴザの座布団の下から、気味悪そうに一枚の紙をつまみ出して須磨子に渡します。色刷りの小さなビラに、日本の地図が中央に書かれ、上のほうには時計の絵が書いてあり、「さくら三月花ざかり、八月日本は灰の国」というような文句が書かれていました。

[…]今日は十二日、原爆がおちてから三日目である。誰が言い始めたのか、皆原爆のことをピカドンと言うのが耳につく。そのものずばりの表現に違いないが、どうも私はこの言葉に抵抗を感じる。そのおどけた語呂のもつ語感が被爆者のみじめさを自嘲し、茶化しているような感じがして、やりきれないのかもしれない。ピカドンという言葉はその後、長い間、使われたが、意固地な私は一度もその言葉を口にしなかった。「原子爆弾」という、妙に重々しいこの呼び方の方が、私の悲しみと苦しみを表現するものとして適切なひびきを持っているように思われるからである。

 被爆した人たちは、全身黒焦げになって死んでいたり(焼けた皮膚が縮み上がって腕や脚が宙に浮いてみえる)、片側半分だけ火傷をしたり、川や水がある場所では、みな水を求めて折り重なるようになって死んでいたりします。一瞬で焼け焦げるのですから、おそらく喉が渇いてしかたがないのでしょう。顔が能面のように膨らみ、誰の顔だか判別がつかなくなります。
 なかには無傷に見える人も、急に発狂死したり、紫色の斑点が皮膚にあらわれて、いずれ亡くなっていきます。広島も長崎も「原爆症」の症状は同じです。
 須磨子は原子爆弾の後遺症と生活の困窮に耐えながら、1974年、52歳で亡くなります。原爆投下後の広島の状況を急いで書いた『半人間』の大田洋子と違い(そして彼女は「原爆作家」と呼ばれることを嫌がりました。原爆直後の報告をしたのは作家の<使命>であって、人びとは「原爆で儲けている」と邪推したからです)、福田須磨子は被爆後およそ30年もの間「生きて」きたのであり、小説として結晶化しました。想像力を使って描いた小説とはまた違ったものですが、細部まで生々しくて重いこの作品こそ、ぜひ映像化してほしいものです。

(2021年8月8日)