クイア・プラクティス

ノン・ヘテロの身体障害者。雑文書き。観て読んで考えて書く。それが反応。

本の花束(12)小池昌代『黒雲の下で卵をあたためる』(岩波書店、2019年)

 詩の言葉はとても光り、ときには胸にひどく刺さりますが、小説となるとさほど光らない人がいます。中島みゆきです。わたしは40年くらい(最初はたぶん小4)彼女のファンでして、深夜放送も毎週欠かさず聴いていました。大学受験の年になると、彼女は深夜ラジオを「中退」(「卒業」と言わないところが彼女らしい)し、フォークの曲調をロックにアレンジしたり、小説をいくつか出版したり、精神的にも肉体的にも行き詰まりを感じたらしく、いわゆる「葛藤」をしていたらしいのです。それが、シアターコクーンの『夜会』(独り芝居ミュージカル?)が始まると、何だかしっくりしたように落ち着いてきました。ちなみにわたしは一度も行けていません。ファンクラブに入っていようがそうでなかろうが、チケットの入手が非常に困難なのです。『夜会』は毎回満員御礼だと聞きました。
 彼女の初期の作品に『エレーン』があります。当時、彼女と同じアパートの住人が殺されました。被害者かつアパートの住人はセックスワークの外国人でした。それがとてもショックだったと、何かで彼女が書いているのを読みました。それと同じころ、『エレーン』らしきもののモチーフが小説となりました。わたしは「あ、これはあの曲に違いない」と思い、読みましたが、『エレーン』ほど、心のなかをかき乱されることはありませんでした。もしかしたら、彼女の言葉ではなく、歌がダイレクトに訴えてきたのかもわかりません。

 詩人・小池昌代は、比較的最近知りました。何を読んだのかわかりませんが(たぶん小説です)、とにかく読んで感化されて、わたしもついうっかり小説を書いてしまいました。何が感化スイッチになるのかよくわかりません。しかもなお、彼女の詩集は、なぜかまだ読んでいません。おそらく詩も、雷に撃たれたようになるかもしれません。期待はしていますが、どうも彼女の詩集に手を伸ばすことはしませんでした。どうやらわたしのなかで何かのタイミングをはかっているようです。

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 先日、別の本を読んでいて、小池昌代の名前が出てきました。詩を紹介する本でしたから、彼女の詩も出てきたと思います。ところが、わたしはなぜかエッセイ集に手を出してしまいました。それが『黒雲の下で卵をあたためる』です。
 圧倒されました。「鹿を追いかけて」という冒頭のエッセイです。

 […]鹿の目は、わたしを見ていたのであったが、わたしを含むこの世界全体を、まるくくるむようにぼんやりと見ていた。それはいってみれば、宗教的な瞳だった。
 そういう視線に出会ったのは、初めてだった。ひとの視線の多くは、わたしという人間を世界から選別し、意味を与えるために、そそがれるものだった。あるときはやさしく、あたたかく、賞賛の意味を込めて。あるときは鋭く、きびしく、非難や叱責をこめて。

 エッセイ集は全部で30近くあります。文庫本なので、寝る前に1編ずつ読むつもり(もったいなくて一気に読めません!)ですが、読むとつい思うところがあり、そして書かないと気が済まなくなり、かえって覚醒してしまいます。これがわたしの性分なのです。読み終わるころには、彼女の詩を読むでしょう。わたしのなかで、いまさら「小池昌代ブーム」が来ています。いまさっきAmazonでこのエッセイ集をポチりました。
 最後に、担当編集者がおそらく作成したと思われる、裏表紙の宣伝文を引用します。要約には最適です。

 誰もが毎日見ている空の下で、あの黒雲の下で、今、何が起こっているのだろう? 詩人の鋭い感性と豊かな想像力から立ち現れる、誰もが気が付かなかった日常風景のなかの一場面。読む人はそこで、詩人にどのようにして詩が訪れ、また、詩人は詩をどのように読み感じているのかに、触れることができるかもしれない。フィクションとも思える、美しい日本語を通して、新しい経験へと誘う。

(2021年8月31日)