クイア・プラクティス

ノン・ヘテロの身体障害者。雑文書き。観て読んで考えて書く。それが反応。

ヤン・アンドレア『マルグリット・デュラス 閉ざされた扉(河出書房新社、1993年)』

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 作家で映画監督のマルグリット・デュラス(1914~1996)は、結婚して出産後の29歳のとき『あつかましき人々』を発表し、82歳で死去するまで、小説やエッセイを含む著作は20冊以上、映画は15本以上製作しています。本人も言っていますが、まさに「病的」です。中島梓のようなワーカホリックとは違います。「書かざるを得ない」のです。

 かの有名な『愛人/ラマン1984)』という映画も小説(ゴングール賞受賞)も、わたしはずっと避けてきました。なぜだかわかりません。ところが、今年(2021)になってようやく読みました。あらすじを言うと、主人公の末娘「わたし」は、幼くして父を亡くし、狂気に取り憑かれた母、横暴な上の兄、早逝した下の兄とともに貧困のなかで生活し、一方で、金持ちの年上の中国人の愛人になります。「わたし」が15歳半のときでした。母と上の兄は仲良くし、中国人との関係を知った母は「わたし」に「まるで娼婦だ!」と憎みます。そして、その中国人が死にます(小説上とはいえ、彼女が殺しました)。

 彼女は似たような設定の小説『北の愛人』も出版します(わたしは未読)。『エミリー・L』を読んだところ、あまり面白くなくてページを飛ばして訳者あとがきを読むと、タイトルのエミリー・Lは19世紀の詩人エミリー・ディキンソン(1830~1886)だそうで、家族そろって敬虔なキリスト教徒にもかかわらず、彼女だけは「恩寵拒否」の人でした。

None may teach it --Any--
'Tis the Seal Despair--
An imsperial affection
Sent us of the Air--
When it comes,
the Landscape listens--
Shadows--hold their breath--
When it goes,
'tis like the Distance
On the look of Death--
その正体はなんびとにも皆目不明
それは絶望という封印
虚空から送られてきた
荘厳な苦悩である
それが訪れてくる時、
風景は耳をそばだて
もの影は息をひそめる
たち去ってゆく時は、
死者の相貌にあらわれる
遠ざかりを思わせる

 時代が時代なので、周囲の人たちから爪弾きにされても、エミリーは自分の気持ちを絶対に曲げませんでした。彼女はこう書きます、「狂気昂じて至高の正気」と。デュラスは自分とエミリーとを重ねました。

『エミリー・L』のLは、『ロル・V・シュタイン(の歓喜)』の頭文字Lです。この架空の名前は「ロル=ROLL=紙(パー)」、「V=はさみ(チョキ)」、『シュタイン=石(グー)』といったじゃんけんのことです。こうしてデュラスは言葉遊びと想像を深めていきます。

 デュラスが興味を持ったのは、ヘミングウェイジャック・ロンドンなど、自殺した男性作家でした。理由はわかっていませんが、わたしにはわかります。デュラスはすべての男たちを憎み、想像のなかで殺していたのですから(このエピソードはヤンの口述筆記のなかで出てきます。アルコール依存症で朦朧となった彼女に自殺した男性作家の自伝を朗読すると、彼女は夢中で聞き入っていました)。

 彼女が書いた小説はすべて「嘘、作り話、妄想上のこと」で、事実ではありません。ですが、彼女が繰り返し繰り返し同じ設定の小説を書くのは、裏を返せば、その事実を否定するために何度も何度も壁を塗るようなものです。女性作家が小説内で肉体関係の描写をすると、「これは事実ではないか?」とゲスい出刃亀のような心理に陥りますが、デュラスの小説を読めばわかります。彼女は強迫観念のなかで書き続けました。書かずにはいられませんでした。

 もうひとつ、訳者あとがきでわたしがメモしたのは、モーリス・ブランショ書くために死なねばならぬ。だが、死ぬためには書かねばならぬ」でした。これも、彼女の作家人生を端的に表現した言葉です。

 いまわたしが読んでいるのは、ヤン・アンドレア『マルグリット・デュラス 閉ざされた扉』です。デュラスと38歳も年の離れたヤンと恋人関係になったデュラスは、アルコール依存症でぼろぼろになり、指の震えが止まらなくてヤンが口述をとったのでした(後に『死の病い』として出版)。こうして、過去は事実か想像かわからなくなりました。過去は過去、すべては虚構、虚無だけが通り過ぎます。そして、すべてはあなたが想像するしかありません。

(2021年11月14日)