クイア・プラクティス

ノン・ヘテロの身体障害者。雑文書き。観て読んで考えて書く。それが反応。

マルグリット・デュラスからジョルジュ・バタイユ、そしてモーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』(朝日出版社、1984年)について(2)

……あなたは、愛するという感情がどうやって起こるのだろうかとたずねる。彼女はあなたに答える。「おそらく、世界のロジックの突然の裂け目から」彼女は言う。「たとえばある誤謬から」彼女は言う。「意志からは絶対に起こらない
マルグリット・デュラス『死の病い』)

『死の病い』はアルコール依存症で入院中のデュラスが、ヤン・アンドレアに口述筆記させた晩年の小説です。アンドレアがまだ学生だったときデュラス監督の上映会に参加したときに知り合うのですが、彼はゲイであると知って、デュラスはそれでもなお自分を性的に誘惑してこないと密かに嘆いていました。二人はいずれ恋人関係になりますが、肉体関係があったかどうかはわかりませんし、肉体関係よりも深い関係があったのかもしれません。その証拠に、口述筆記という共同作業があったのだと思います。

 以下は『死の病い』の訳者あとがきです。

 エマニュエル・レヴィナスは『時間と他者』のなかで、卓越した恋愛観を披露している。「性の二元性はひとつの全体を前提としている。ということは、愛を融合として、あらかじめ想定することである。愛の悲劇は、諸存在の克服しがたい二元論のうちにある。それはつまり、いつまでも永遠に逃れ行くものとの関係である。(中略)愛撫とは、主体が他者との接触においてこの接触の彼方にまで行くような、その主体のひとつの存在様式である
問題はこの「愛は融合という前提」にある。ヴィルコンドレの解釈が「肉の深淵における融合」を前提にしていることは指摘するまでもあるまい。だがその前提を疑ってかかる者もいるのである。モーリス・ブランショは、デュラスの『死の病い』を論じた『恋人たちの共同体』のなかですでに、いまのレヴィナスの論述を踏まえながらこう書いていた。「彼らは互いに身を接してその(共同体の)傍らにおり、この近接があらゆる種類の空虚な親密さを経由して、彼らを《融合に似た、あるいは合一に似た》むつみ合いの喜劇を演じてしまうことから保護している」。
 こういう喜劇を拒否し、「接触の彼方」に赴くデュラスの姿をアンドレアはちゃんと書きとめている。「ただひとりで神と向き合い、明白で、倦むことなく繰り返される指令に従ってあなたは書いてゆく
 だが、デュラスがただひとりで向き合う神とは、不在の神である。その点をアンドレアはきちんと記録している。「あなたは言う。《神というのは、どんな場合でも、黒いからっぽの箱以外の形では表示不可能よ
 パスカル同様に、「あなたは、信じたいというあなたの願望をわめきたてる」、デュラスを論じてこの急所に視線の届いていない文章は、読んでいてむなしい気にとらえられる。デュラス自身がアルコール耽溺を分析してこう語っている。
神が欠けている――若い日に気づいたこの空虚さは、どんなことをしてみたところで、空白なんかなかったようにするわけにはいかない。アルコールは、世界の空虚さ、惑星間のバランス、空間におけるその平然たる回転、人間の苦悩に対するその深閑たる無関心さを耐えるのに適している。飲む人間というのは宇宙的人間なのよ。彼が動くのは惑星間の空間よ。(中略)アルコールは何の慰めにもならないし、個人の心理的空白など満たしてくれず、神の欠如の代わりにしかならない。(中略)アルコールはその(神の)創造の代わりをつとめるために存在してるのよ。神を信じてしかるべきなのにもう神を信じていない一部の人たちに対して、例外なしにアルコールはその創造代役を果たしているのよ。アルコールは不毛よ
 ヤン・アンドレアがデュラスの執筆現場に居合わせての記録は、やはり貴重な資料と言わねばならない。彼女が見知らぬ少女にあてた手紙を書くときですら、句読点の打ち方に腐心する様は、日頃から文章の区切りかたに、作曲家がフェルマータ記号を扱うのに似た細心の注意を払っていることがしのばれる。
 また、書き上げた『死の病い』をアンドレアに朗読させ、自分の文体の「声質(こえしつ)」を確かめてゆく姿勢には、メッセージ自体よりも、その文章を書くときの心の息遣いのほうを重視する特長が窺え、彼女特有の、繰り返しの多い短いフレーズによる文章構成法が耳の検討を経てゆく機微を伝えている。『ヤン・アンドレア・シュタイナー』に拠ると、そもそもデュラスに惚れ込んだ最大の原因も、その声にあったようだ。

 マルグリットとアンドレアは、傍からは年上の妻と若い夫に見えますが、実はヘテロ女性とゲイ男性です。日本の現代のカップルで思い出すのは、中村うさぎとゲイ男性が結婚したことです。このケースでは、ゲイ男性が香港の出身であり数年に一度香港へ帰らないと労働ビザを取得できないからという理由がありました。ゲイ男性には恋人の男性がいたような気がします。
「あの人、ハンサム/美人なのにいまだに独身だなんて。きっとゲイ男性/女性に違いない。」昔はよく(異性愛者の視点で)こう邪推されていました。ところが現実には、異性カップル/既婚カップルに見えるけれども実際はそれぞれのセクシュアリティは違うのだ、と。
 ふたりでいること、カップルであることは、最小限の「共同体」です。ところがその共同体はもろくも崩れ、単独者でいることを拒みようがありません。

「グループ、歴史、言語の誕生を司るものは犯罪である」
(ジュール・アンリケス『部族から国家へ』)
ジョルジュ・バタイユはつねづね、内的体験はその出来事をその失寵とその栄光とを担うだけで自足してしまう単独者に限定されたものであったら、起こりえなかっただろうと主張していた。つまり体験が成就されるのは、それが不完全性のなかに執拗にとどまりながら分かち合われ、その分かち合いの中でみずから限界を露呈し、その限界の中におのれをさらすときである。体験はその限界の侵犯をおのれに課すが、それはあたかもこの侵犯によって<単独で>それを侵犯しようとする者からは逃れ去るある法の絶対性の幻影あるいは宣明を出現させるためであるかのようである。その法とは従って共同体を前提とする法である(共同体すなわち、体験独特の特徴に含まれていると思われる語ることの不可能性を、たとえつかの間ではあれ、わずかな言葉で打ち破る二人の特異者の間の相互了解、あるいは共通の同意。その唯一の内容は、伝達不可能ということ。それには補足がある、伝達不可能なもののみが伝達に値する、と)。
モーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』)

 

(2021年11月24日)