クイア・プラクティス

ノン・ヘテロの身体障害者。雑文書き。観て読んで考えて書く。それが反応。

小栗判官と照手姫

小栗判官(をぐりはんがん)』とは説教節の代表作である。大学時代わたしは一般教養の授業に出席しており、この説教節を聞いた。なので特別詳細なエピソードはない。ただ、タイトルの小栗判官は旅の途中で騙されて毒を飲まされ、皮膚は爛れて化け物のようになり、非力で無用で役立たずで、後の物語の展開は照手姫の大々的な活躍によるものだった。後々わたしが思うのは、照手姫はフェミニストのように力強く機転が利き、最終的には小栗判官を導いて彼を救うのである。それは「銃後の守り」とでも言うような消極的な後方支援では決してない。

 説教節は各自ググってもらいたい。落語と同じく、現代では無形文化財でありながら後継者不足で滅亡の危機に瀕している。わたくし思うに、一因には外国による商業映画などの植民地文化が起こり、やがて日本独自の説教節はいつのまにか消えてしまったのでないだろうか。

 それは商業だけでなく精神的なパラダイム変換も確実に起こっている。中世の日本は家父長制支配下にいたが、奇跡的にも『小栗判官』のような逸脱した物語が存在した。その奇跡的な無形文化財を舶来文化の洗脳で汚してしまい、無化・否定してしまい、ついには消滅してしまうのだ(具体的には山坂険しい土地を巨大ブルドーザーで均して平地と化した再開発である)。かつて帝国主義かつ植民地文化で洗脳し、次は人種差別と男女差別で再洗脳する。説教節なんて見たことも聞いたこともない日本人が増えてきているのに、現在では英語圏ではフェミニズムやポストコロナリズムやポジショナリティやクイア理論やジェンダーをわざわざ<輸入して>学ぶのだ。なんと嘆かわしいことであろうか。
 貴重で奇跡的な文化は消滅と同時に復活する。近年では梅原猛作のスーパー歌舞伎オグリ(初演1991)』、大野一雄による舞踏『小栗判官照手姫(1994)』、遊行舎による遊行かぶき『小栗判官と照手姫――愛の奇蹟(2001)』(説教節・政太夫)、宝塚歌劇団花組公演『オグリ! 〜小栗判官物語より〜(2009)』、オペラシアターこんにゃく座公演・オペラおぐりとてるて(2014)』、横浜ボートシアター仮面劇『小栗判官照手姫(初演1982)』などがある。また1990年、近藤ようこによって漫画化・発表され、詩人・伊藤比呂美の新訳『説経節 小栗判官しんとく丸山椒太夫(2015)』もある。これほどまでに復活した物語を、いまだ知らないと言う人々もいる。

 学問・研究は平等で無偏見と言うが、わたしが知る限り、学問・研究はあくまで個人的興味・関心が萌芽の拠所である。所詮、個人の好き嫌いや偏見があり、学問・研究の発展は結局のところ恣意的なものではないのだろうか。専門家・研究者はスペシャリストであってジェネラリストではない(そもそもは欠陥だらけの人間個人である)。ジェネラリストではないが、個人の偏見には客観的、意識的でいてもらいたいのだ。