クイア・プラクティス

ノン・ヘテロの身体障害者。雑文書き。観て読んで考えて書く。それが反応。

本の花束(15)川口有美子・新城拓也『不安の時代に、ケアを叫ぶ(2022、青土社)』

 青土社のプレゼントキャンペーンでいただきました(先着順)。哲学科専攻だったので、学生時代から青土社にはお世話になっております。代わりに書評を書いて自分のブログにアップしようと思いますが、雑誌のように字数制限がありませんので、あまりに長くなったら申し訳ございません。はじめに断っておきます。

 あと、わたしの文章はひじょうに冗長です。それに正解も解決もオチもありません。読者諸氏にとっては無意味で退屈なクソ面白くもない書評です。だったら読まなくて結構です。あなたには絶対にわかりませんし、結局わたしもわからないまま死ぬでしょう。そういうことです。

 

1)難病ALSとSFの設定について

 この前に読んでいたのはチョン・ソヨン『となりのヨンヒさん(2019、集英社)』という短編SF小説集でした。その前は『最後のライオニ 韓国パンデミックSF小説集(2021、河出書房新社)』でした。チョン・ソヨンつながりとSFつながり、そしてパンデミックつながりでここまで読んできました。ぶっちゃけ乱読派です。

 著者のお一人である川口有美子さんは、ご母堂がALSになり、彼女は母のケアラーになりました。そして母が亡くなった十数年前、彼女はALSに特化した介護事業所を立ち上げ、いまでは厚労省ロビイストになりました。かかる経費はすべて手弁当です。「一貫した信条は経営にあらわれる」とよく言いますが、「ALSは難病か? 障害か?」「一度つけたら日本の法律は呼吸器を外せないから尊厳死だ、安楽死だ(だったら安楽死できないように根本的に法律を変えてやれ)」という、医学と看護学生命倫理学、あらゆる情報と知識と経験を総動員した難関な議論や、患者家族をめぐる生死を超えた問題、もはや誰にも正解はわからない、そう、まさにSFの世界を現実に懸命に生き、ご自分のケアの経験を根幹としてALS患者家族の生活支援の問題を問い続けている彼女を、わたしはいつもいたく敬意を表しています(いまは傍観しかできません。本当に申し訳ないですし、これらの問題を考えるとどうしても“常識的な無知”のひとたちに憤りを感じてしまいます)。

 わたしは専門家ではないのですが、緩和ケアとは、主にがん(不治の病)による苦痛を和らげるため、患者の症状に合った鎮痛剤を処方しケアすることです。しかし、ALSの苦痛とは、身体的苦痛だけでなく、家族同士やコ・メディカル関係の「ちょっとした言葉」のぶつけ合い・傷つけ合い、要するに精神的苦痛も当然あります(ALSとは全身が動かなくなる病気ですが、認知症とは違います。頭は最後までクリアです)。

 そもそもALSという難病がSFじみています。脳(運動神経)の病気で、だんだん身体が動かなくなり、治療法はなく、しかも対処療法で、最後に呼吸が止まり、人工呼吸器をつけないと生き続けることはできません。介護している家族は無力感に陥り、いつも患者の傍を離れられず、憂鬱で、毎日が引きこもりの生活で、出口のない暗いトンネルを歩き続けているようです。生きているからにはご飯やおやつも食べるしお酒も嗜むし(胃ろうからの流動食)、お風呂も着替えも外出もするし、つねに身体を動かしていないと関節が固まるし、また痰の吸引も定期的にやらないと、ひとりで放置してはあっけなく死んでしまいます。ALS患者は、まるで荒野にとり残された温室の可憐な薔薇のようです。川口さんご本人は「温室で蘭を育てるように(ALS患者をケアすること)」と言いました。

 一時期、「(サボテンやポトスを枯らすような)砂漠女」と自嘲する言葉が流行りました。それくらい「ずぼら・がさつ」なこと、つまり「女らしくない」ことをアピールして居直っているのだと思いました(ちなみに川口さんの介護事業所のALSケアラーたちは男女ともに所属しています。仕事の質を常に向上しようとする心と性格・ジェンダーは無関係だと思います。ついでに書くと、観葉植物の世話をどんなに気遣い、水やりや肥料をやってもやはり枯らしてしまうひとは、残酷なようですが植物を持たないほうがいいと思います。「砂漠女」が観葉植物を所有することはエゴイストそのものです)。ならば、自嘲する連中はとっとと運動神経障害になって、「ずぼら」で「がさつ」で不勉強なヘルパーだけに囲まれ、悩む時間は連中にとっては贅沢だから皆無で、あっけなく死んでしまえばいいと思います。枯らされたサボテンやポトスと同じ立場になればいいと思います。

 

2)パンデミックトリアージ

 そこへコロナウイルスによるパンデミックに世界中が襲われます。高齢者や基礎疾患のある人たちは罹患すると重症化します。最終的には急性肺炎にかかり、呼吸器不全で多くのひとたちが亡くなっています。糖尿病のわたしも重症化する危険性がありますが、ひとり暮らしのため、幸か不幸か、他者から空気感染する契機が少なくなっています。いまはひとりで生活して他人に干渉されることなくせいせいしていますが、身体障害者で50を過ぎたわたしは、やがてひとりでは生活できない日が来るでしょう。

 いまからほぼ100年前、スペイン風邪が猛威を振るいました。世界第一次大戦インパクトが強すぎて世間では忘れているのでしょうけど(第3波まで来ました)、コロナの第7波も来ないとは限りませんし、いつ収束するのかも誰にもわかりませんから、慎重にしないといけません。だからといって、わたしたちにはもうなす術がなく、ギリギリの崖っぷちに立っている状態です。コロナウイルスは空気感染で、肺呼吸する人類が罹患するかしないか、極論すると運命だとわたしは思っています。マスクの有無は関係ありません。気休めにすぎないのです。

 トリアージとは、災害発生時などに多数の傷病者が発生した場合に、傷病の緊急度や重症度に応じて治療優先度を決めることです。災害時の医療救護に当たっては、現存する限られた医療スタッフや医薬品等の医療機能を最大限に活用して、可能な限り多数の傷病者の治療にあたることが必要です(東京都福祉保健局サイトより引用)。

 悪意ある解釈によると、つまり、トリアージ」という名の『蜘蛛の糸』、五輪アスリートによる「金メダル(勝者)はたった一人」の、単純なストーリーのことです。深刻な病気になってまで、なぜ市場経済的で弱肉強食的な「パイ(=人工呼吸器)の奪い合い」をしなければならないのでしょう。パイが足りなければ「パイを増やす」ことはできないのでしょうか。極端に物資が少ない時代ではありません。なんとも不思議です。

川口「もし〇〇になったら、どうするのか?」という「たら・れば」言葉は、終末期医療に「あるある」話のひとつ。「もし呼吸できなくなっても、人工呼吸器をつけないでほしい」「もし人工呼吸器をつけるよな状態になったら、治療をやめてほしい」……。そうした「もし」をどうして若葉マークの患者当事者が、そうなる前に決めて文章にしておかなければならないのかと、ずっと疑問に思ってきました。実際「事前に決めておいたほうがいい」ことは、死ぬためのことで、生きるためのことじゃない。「もし治ったらどうするか」といった希望的な「もし」はほぼ出てこない。最悪な状況に備えておくという医療の発想が、病人によくない影響を与えていると思ってますよ。責任を取らなければならない立場にいる、と思い込んでいるひとたちが、当事者の言責をとっておきたいということでしょう? これは病院だけじゃなくて、学校や企業でもしょっちゅう起きていることと同じだと言えば、想像つくひとはつくでしょう。

新城 病院内の委員会だとかはそうですね。私なんかも「“もし〇〇になったら”について考えといて」と言われたりする立場でした(苦笑)。そういう「たら・れば」の会議が嫌になって、勤務医を辞めたというのも開業の理由の一つです。最悪の状況に備えて議論しても、実際に今のように最悪の状況になったときには、そのときの新しいメンバーで新しく考え直すしかないからです。時間の無駄だと感じていました。

川口 とにかく生身の患者よりもルールが大事なんですかね。それで、ALS患者自身がゲリラ作戦で、学会や研究会に乗り込んでいって、呼吸器を装着しないひとの意思決定支援なんて演題の発表者には質問するようにしてきたんです。

 

 すでにご存知のかたもいるように、痰の吸引は看護職がやる「医療行為」なので、介護ヘルパーには不可能だから「生身の患者よりルールが大事」なんて言わせない、川口さんの事業所は命が大事なので介護ヘルパーたちにどんどん痰の吸引をやらせていました。ALSのヘルパーだったわたしも痰の吸引をやりました。

 拡大解釈するとして、コロナウイルスパンデミックにより、人工呼吸器のトリアージが実際に起こったとき、同時に「痰の吸引→看護職の増員」が必要になります。人工呼吸器だけがあっても命は救えません。

 

3)安楽死とセデーション(鎮静)

 2020年7月、京都でALS患者の女性がSNSで知り合った医師2人の手を借りて「安楽死」したという事件の報道がありました。報道では「安楽死」でしたが、わたしは「自殺幇助」で医師2人が逮捕されたと解釈し、川口さんは「嘱託殺人」ということなのですが、いずれにしても、日本の法律は「安楽死」が可能ではなく、「刑法 殺人罪」で医師が捕まる現状ですし、その報道を受けてALS患者も「安楽死したい」と触発されることは、苦痛緩和ケア医の新城さんの経験では皆無だったと言います。

 

川口 新城さんの患者さんは、先生が末期のひとの苦痛緩和ケアを一生懸命考えているとは知らず、地域の普通のクリニックの医師と思っているんですね。

新城 市内病院のリストに入っているんです。「この先生は往診します」と。その一人にすぎません。

 それと同時に、大きい病院で働いているからこそ見えてくるものがある。それは、緩和ケアがどれくらいの質のものかを確認することが重要だということです。私は大きい病院では普段、他の医師の臨床について監査をしているんです。外科や内科、耳鼻科、泌尿科、婦人科、脳外科…頻度の違いはありますが、ほとんどすべての診療科の病棟に行くんです。そこで、医師と患者の間にどんなやりとりがあったかを見るんです。カルテで、主治医と患者さんとのやりとりを確認して、良好な関係にあるのか、説明が十分にされてるのか監査するのも緩和医の仕事だと思っています。

川口 すべての診療科に足を運ぶってすごい。それで、「それは本人にはきちんと説明したり、相談したりしているんですか?」とか訊くんですか。重要なお仕事です。

新城 監査して、コメントして、口に出し、カルテに残す。時々は、看護師さんに助言を与えるんです。「患者さんは、この辺りの認識ができていないので、もう少し説明を加えたほうがいいです」といった感じです。緩和ケアの病棟で勤務していたときは、自分の治療も絶えず周囲の医療者から監査されていました。医師が二人、看護師が二〇人くらいですから、相互監査になります。一人の医師の独断で無理な指示が通せない。そういう指示が通りやすいのは、医者の力が強い田舎の病院ですね。現にいくつか事件が起こっています。

 二〇一七年、島根県の病院で安楽死事件が起こったんですよ(「“最終的な治療”は許されるのか ある医師への取材記録」『NHK NEWS WEB』二〇二〇年一二月二三日)。塩化カリウムを注射しています。患者さんを「楽にしてあげよう」と医師が考え、実際に投与したのです。

川口 それは患者さんが「痛い」と言い続けるからですか?

新城 どんな治療を施せど回復しないからです。寝たきりと肺炎を繰り返して、何回メカの入院だったそうで、その患者さんをずっと診ている医者だった。ですから「もう楽にしてやろう」と思ったようです。家族と医師が話し合って、「もう今日で終わりにしよう」と。

川口 でも、本人は承諾していないわけですね。

新城 もしかしたら、医師と患者さんの間できちんと事前に話し合っていたのかもしれません。詳細はわからないのですが。しかし報道の内容では、患者、家族共に同意がないようです。いずれにしろ、病院内の相互監査が十分に機能せず、たった一人の医師の判断で実行できてしまうことに、私は違和感と問題を感じました。

 

新城 先ほど私は監査が重要だと申しましたが、ケアの質が落ちていないか、きちんと見張るひとを組織のなかにつくろうと上のひとが思わないとダメですよね。もちろん、そうした立場は組織の利害関係外のひとから選ばれるべきですが。

川口 院長がしっかり職員を把握されている病院は安心なんですが、そうでないと院内のケアの改善はなかなか難しそうです。病院長は当事者ピアサポーターを病棟に送り込んだらいいですよ。厳しい目でチェックしますよ(笑)。

 実は以前似たようなアイデアを難病ケアの研究会で提案したことあるんです。病院の倫理委員会には当事者アドボカシーをいれるように、って。病院にコンサルテーションを常駐させるなら、そこに患者の代弁者も必要だって言ったんです。もめごとになるのを避けるなら、双方に代弁者がいたほうがいいと思って。議論にもならず却下されましたけど(笑)。

新城 私も一五年目くらい前、緩和ケアの質を上げるために医者同士で議論をしていたとき、ピアレビュー(専門家仲間が研究内容を公正に評価・検証すること)をしないと絶対よくないっていかないという話をしていました。

 ピアレビューをしようと思ったら、近くで働いている病院の職員が人事交流しないといけません。結果的に緩和ケアの研修会がその枠割を担うことになりました。今ではほとんど研修医しか参加しませんが、以前は多くの開業医なんかも参加していました。

川口 ぜひ復活させてください。それにはがんのサバイバーなんかも入れるんですか?

新城 患者さんの参加はできません。いやそれ以前に残念ながら、そのピアレビューは全く行われていません。

川口 なんだ、医者同士の交流もできないのでは、患者のピアサポーターを院内に入れるなんてすごく難しいことのように思われますが、絶対そこに当事者サバイバーが入ったほうがいいです。

 私、こうしてなんでも病院のことを批判しているみたいに思われるかもしれませんが、国立病院機構の院長がたくさんいらっしゃる研究班に長い間協力者として入っていましたし、院内の看護の内容とか深刻な顔つきで私に相談してきた院長や看護師長もいましたよ。だからというわけではないのですけど、病院の評価を行う機関に、当事者や障害学の専門家がいたほうがいいです。院長が言いにくいことを患者や障害者サイドから言うといいです。ユーザー評価って大切。それでケアの質が高まるのなら、なおさらです。

新城 日本医療機能評価機構という公益財団法人による、病院を評価し質を高めていく機能は存在しているのですが、実際やられていることはマニュアルの有無をチェックしたりするといったものに留まっています。はっきり言って、使わないようなマニュアルをたくさんつくって面倒なだけでした。

 

川口 ところで在宅での看取りの話に移ります。例えば、家族がちょっと目を離したすきにひとは亡くなるのかなって思ってますが、どうですか? うちの母や友人の死に際がそうだったんです。

新城 むしろ私は、「ちゃんと立ち会ってほしいひとを集めて死ぬんだな」という実感があります。死ぬ時間については、自分自身である程度調節ができるのではないかと疑ってしまうほどです。例えばわざとみんなが集まれる月曜日を選んでいるんじゃないかとか、わざと朝になってから逝っているんじゃないのかとか。

川口 不思議なことがいっぱい起きますよね。死ぬ前後は。

新城 今週まさにこんなエピソードを体験しました。亡くなる前に、「ひとはなぜこんなことを今言い出すんだろう」ということを言い出す体験です。「あの自転車は孫の〇〇にやる」と言って亡くなった方がいたんです。遺産は誰に、土地は誰に、家は誰にみたいな話は確かによく耳にしますが、「あんなにぼろぼろで動かない自転車を孫にやるってどういうことだろう?」と家族の方は、笑いながらびっくりしていました。正直、本当にどうでもいいことを言い出すんです。

 

4)コロナ時代の入院と在宅医療のジレンマ

新城 二〇二〇年の一二月中旬以降から、現場の緊迫感が増してきました。それまでは、報道の大きさに比べて、実際に診療している患者さんの新型コロナウイルスの感染はなく、内心「どうしてこんなにみんなの生活を制限しなくてはならないんだろう」と思うところもありました。しかし、この第三波ではコロナ病棟のベッドも足りなくなってきていて、私が勤める神戸市内でも患者さんが入院できる病院が限られてきていました。

自分も勤務している病院では、二〇二〇年からプレハブのコロナ病棟が二棟できました。これで入院患者が集約できるようになりました。[…]

 現在の状況について神戸市内がホスピス、緩和ケア病棟に実際に訊いてみたのですが、基本原則として家族一人、一五分までという面会制限があります。そして、亡くなる前には二人までと少し制限が緩むことがありますが、十分に最期のときを過ごせるという状況ではありません。

川口 私も父の面会の折に、病院からそのように言われました。あ、前回お話ししたことと重複しますけど、父は昨年(二〇二〇年)の春、ちょうど新型コロナで首都圏が最初の緊急事態宣言下に入った頃(四月七日が最初の緊急事態宣言で新規感染者は八七人だった)に、大腸がんの摘出手術を受けたんです。三月二五日に小池百合子東京都知事が緊急会見で「感染爆発の重大局面」(都はこの日四一人の新規感染者を発表)だと言って、週末の不要不急の外出自粛要請を出して、都内には瞬時にひとがいなくなりました。銀座を歩いてもひとがいないんです。それで、これはもうすぐ医療資源が足りないという話になるだろうと思いました。高齢の父の手術はギリギリで間に合ったと思ったんです。それでも最初の病院では、もう高齢だし、体力的に無理じゃないかって言われていました。それでも父は手術を受けたいと言ったので、セカンドオピニオンを受けた病院に転院して、手術してもらいました。

 

 

 最初のほうに戻りますが、チョン・ソヨン『となりのヨンヒさん(2019、集英社)』というSF短編集は「居場所をつくる、取り戻す」のがテーマらしく、難病や障害の子どもが出てきて、この星は身体に合わないから宇宙船で遠くの星を目指して旅します。SFにはさほど詳しくありませんが、ときに創造力で真実を描く貴重なSF作品もあります。わたしは著者の優しくて切ない筆致がとても気に入り、心が癒され、いつかわたしにもALSをテーマにしたSF小説が書けるかもしれない、と希望が持てる気がします。

 ノーベル文学賞作家の大江健三郎は「書くという行為は自己救済だ」といっています。川口さんにとってALS患者当事者と患者家族の生活支援の活動も、他者(あるいは、かつて母を介護することで精神的にかなり荒廃し消耗した過去の自分)を取り戻し、救済することによる自己救済だと、わたしは思います。

 もしもわたしがSF作品を書くなら、川口さんという登場人物を出さないわけにはいきません。川口さんは、ドラクロワによって描かれた『民衆を導く自由な女神』です。絵を見ればわかるように、フランス7月革命を主題にした、堂々と民衆を扇動する、力強くて勇敢な女性です。当然ですが、現実の川口さんも存在します。でも、彼女が見ているのは希望に満ちた未来そのものです。それを通してわたしはSFを夢想します。夢見るだけで、自由と勇気と活力が湧いてくるのです。