クイア・プラクティス

ノン・ヘテロの身体障害者。雑文書き。観て読んで考えて書く。それが反応。

思考の海に潜りつづける

『Song of the seaソング・オブ・ザ・シー 海のうた(2014、アイルランド・ベルギー・ルクセンブルグデンマーク・フランス合作)』を、遅ればせながらアマプラで鑑賞した。涙腺崩壊の謎を分析する。

 

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 あらすじはオミットするとして、シアーシャの兄であるベンは、灯台のある父親のもとへ帰るときに、シアーシャが生まれると同時に姿を消した母親の記憶を取り戻す。それまでのベンは、シアーシャを守るという名目で、飼い犬のシェットランド・シープドッグのクーのように、彼女の身体にひもをつけ、意地悪する(優しさが足りない)意味で支配している。ベンに意地悪する意識があるのかないのかは不明だが、心のどこかでは、「母さんが消えたのはシアーシャのせいだ」と思っているからだ。

 

 思い込みと記憶(過去の事実)はまったくの別物で、記憶の再生が起こったとき、ベンの記憶に解釈の更新がし、シアーシャが無実であることを知った。ベンは反省してシアーシャに謝り回心する、素直な心の持ち主であることがわかる。このあたりでわたしは涙腺崩壊した。初見は序盤からずっと緊張していたが、やっと安堵したときの涙かもしれない。

 

 母親はなぜ消えてしまったのか? その理由は描かれていない。鑑賞者のなかにも、その理由がわからなくて、物語を追えなくなり醒めてしまう場合もあるだろう。映画の製作者は理由をあえて教えなかったのか。いや、そうじゃない。理由はあってもなくても「そういうものなんだろう」と事実を受け止めなくてはならないのだ。

 

 北欧(ケルト)神話には伝説や伝承の宝庫ともいわれている。たとえば、宝物のありかを知っているレプラコーンや、死を予告して泣く女の妖精バンシーなど。この映画に登場するセルキーとは、海中ではアザラシとして生活し、地上では毛皮を脱いで人間として生活している妖精である。


 男のセルキーは好色で人間の女を誘惑する。一方、女のセルキーは人間の男に恋することはあまりないのだが、変身する姿を見られてしまうと、人間の男に毛皮を隠され言いなりにならざるを得ない場合もある。そのときは無理やり結婚させられ、家族を残した海を恋しく眺めながら、悲しく余生を過ごさねばならない。

 

 しかし、この妖精の話にもさまざまパターンがある。たとえば、セルキーが毛皮を見つけ出して海に帰ってしまうとか、愛した女性がセルキーであることを知らず、気づいたら彼女は海に帰ってしまっていたとか。悲恋に終わるものが多いようだ。

 

 この作品でも、白く光るコートが登場する。まさしくセルキー神話の毛皮がモチーフになっているアイテムである。

 

 再び書くが、こういう伝説や神話を知らないと、鑑賞者のなかにはストーリーが行き詰まってしまうことがある。

 

 日本にも類似の内容の伝説がある。かぐや姫の昇天、あるいは羽衣伝説である。羽衣によって天から舞い降り、白鳥の姿で水浴びをしている天女に人間の男が恋をする話である。男が天女の帰還を阻止するために羽衣を隠してしまうなど、セルキー神話との共通点がいくつか見られる。そう考えると、セルキー神話を知らなくても、「母親が消えた理由」は知らなくても、かぐや姫や羽衣伝説に置き換えれば納得できるはずである。

 

 誕生した時代も場所も異なるのに、神話や民間伝承の内容が近寄ってしまうという事例は、比較文化人類学のなかで教えられている。人間が食べものを探して移動するなかで同じような話が伝播されたのか、あるいは、なにかの偶然で同じ伝説が多発的に存在すると思われる。個々の民族の神話や伝説は、人類の普遍的な部分に触れているような気がして神秘的である。この作品も、遠い海の向こうの国で作られているのに、どこか懐かしさを感じさせ、不思議な気持ちになる。

 

 デザインについていうと、日本のアニメを見慣れている人たちは、一種新鮮なものを感じたのではないだろうか。小学校教科書にも採用されている『モチモチの木』の挿絵に似ている。版画のような切り絵のような、独特のデザインである。映画を観るとき、まるで絵本を開くような気分になった。

 

 この映画のテーマのひとつとなっているのが、人の「ネガティヴ」な感情である。作品では、「悲しみ」や「怒り」などの「負の感情」を、文字通り取り除いてビンのなかに閉じ込めることで、心のバランスを保つというシーンがある。また、巨人の息子が「悲しむ」姿を見たくないために、母親のマカ(フクロウの化身)が魔法で息子を石にするエピソードもある(映画では、息子が流す涙が大量にあふれ、全世界が海になってしまう、と母親が危惧したからである)。

 

「悲しみ」や「怒り」などの感情が起こったとき、それとどう取り扱ったらよいのか、どの人間も文化も必ず直面する問題だ。その解決法は「感情を取り除く(=石になる)」でよいのかという難解なテーマが、この作品にはあるのだと思った。

 

 これは世界遺産の「負の遺産」とも関連しているのではないだろうか。「負の遺産」は世界遺産条約のなかで明確な定義があるわけではないけれども、人類が犯してきた過ちを記憶にとどめ、後世への教訓とする遺産と考えられている。貴重な文化財や自然環境を保護・保全する世界遺産条約で「負の遺産」と考えられる遺産が登録されている理由は、「記憶にとどめる」というところにある。

 

 辛いできごとや悲惨な記憶を思い出させる遺産を残すのは、とても勇気のいることだが、ひどい苦痛の記憶としっかり向き合うことが、逆に人々の心のバランスを保つという文化財の「レジリエンスとしての効果」が、最近注目されている。「負の遺産」の議論のなかで、「加害者」と「被害者」はどのように価値のなかに含まれているのか、と取り上げられることがある。しかし、人道上の罪を犯したナチス・ドイツ以外は、基本的には加害者を断罪する内容は価値に含まれていない。無差別殺戮兵器である原爆の投下も充分、人道上の罪を犯している気はするけれども。

 

負の遺産」とは、その遺産に関連する人々の心を癒す存在であるという考えかたが、そこから見えてくる。人は「哀しみ」や「怒り」を忘れようとして別のこと(アルコールやギャンブルなど)に心を逸らさずに、ずっと忘れない、何度も思い出す。人の感情は変化しても、人の「記憶」は変化しないし消えない。最初は耐えられないだろうが、時間をかけて徐々に耐えられるようになり、直視できるようになり、思い出しても平気になる。「心が石に」なった人は、すでに人ではない。そう考えると「負の遺産」は、ネガティヴではなくポジティヴな存在だといえる気がする。

 

 涙腺崩壊の謎はまだ解けない。この作品を鑑賞してすぐに思い出したのは、『L'Enfant qui voulait etre un ours シロクマになりたかった子ども(2002、フランス・デンマーク合作)』である。この作品は、イヌイット神話を元にしたファンタジー・アニメーションである。

 

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 とあるシロクマ夫婦は、妊娠した子どもが死産であったため、母親がすごく哀しみ、ご飯を食べられなくなる。父親は心配して海や川で魚を捕り母親に差し出すが、食欲のない母親は徐々に生気を失う。

 

 あるとき、赤ん坊のいるイヌイットの夫婦の家を父親は見つけ出し、母親を喜ばすため赤ん坊を盗む。母親は喜んで赤ん坊を受け取り、子育てする。

 

 一方、人間の母親は赤ん坊がいないことを知ってひどく嘆き、執念深く赤ん坊を探し続ける。赤ん坊が少年に育つまでにもいろいろあった。獲物を捕るのが下手で、海に潜るのも下手で、周りのシロクマたちに「お前は人間の子どもだ」「シロクマにはなれない」とさんざんバカにされるが、それでも人間の少年はめげない。アザラシやカラスと話をして仲良くなるが、赤ん坊を探し続けた母親が少年を見つけて、家に戻す。服を着せるが居心地悪く、人間の集まりに近づくと「ケモノくさい」といわれる。人間の少年はもはや人間にはなれず、服を脱いで海に潜り、本物のシロクマとして生き続ける。さすがに涙腺崩壊はしなかったが、心の琴線に触れたような気がしたので思わずDVDを買ってしまった。

 

 「人間」と「人間でない」もののあいだには、さまざまな葛藤があるが、隣接しあった生き物はいずれ溶け合って親しくなる。「人間」と「シロクマ」は、種類が違うが互いに見慣れたもの同士で、それが神話になったと思われる。『Song of the seaソング・オブ・ザ・シー 海のうた』は、「人間」と「妖精」が混じり合い、そして引き裂かれた神話だろう。これもDVDを買ってしまったが、いつか涙腺崩壊せずに鑑賞できるようになりたいものである。

 

 混じり合ったものが引き裂かれるとき、わたしは涙を流す。それはおそらく哀しみの涙だろう。でもそれらが引き裂かれたときには、本人が喜んでいるような気がして、同時にわたしも喜びの涙を流しているだろう。

 

 これらの二作品は、哀しみと喜び、悲劇と喜劇の入り混じった物語である。単純にジャンルで引き裂いてはならないと思う。感情とはひとつだけではない、複雑に入り混じったものだ。感情の海、思考の海、精神の海に深く潜りながら、わたしは宝物を見つける。最初は顔をつけるのが苦手な人もいるだろう。だが、心配しないでほしい。わたしだってできるのだから、あなたにもできるはずだ。