クイア・プラクティス

ノン・ヘテロの身体障害者。雑文書き。観て読んで考えて書く。それが反応。

思考の海に潜りつづける

『Song of the seaソング・オブ・ザ・シー 海のうた(2014、アイルランド・ベルギー・ルクセンブルグデンマーク・フランス合作)』を、遅ればせながらアマプラで鑑賞した。涙腺崩壊の謎を分析する。

 

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 あらすじはオミットするとして、シアーシャの兄であるベンは、灯台のある父親のもとへ帰るときに、シアーシャが生まれると同時に姿を消した母親の記憶を取り戻す。それまでのベンは、シアーシャを守るという名目で、飼い犬のシェットランド・シープドッグのクーのように、彼女の身体にひもをつけ、意地悪する(優しさが足りない)意味で支配している。ベンに意地悪する意識があるのかないのかは不明だが、心のどこかでは、「母さんが消えたのはシアーシャのせいだ」と思っているからだ。

 

 思い込みと記憶(過去の事実)はまったくの別物で、記憶の再生が起こったとき、ベンの記憶に解釈の更新がし、シアーシャが無実であることを知った。ベンは反省してシアーシャに謝り回心する、素直な心の持ち主であることがわかる。このあたりでわたしは涙腺崩壊した。初見は序盤からずっと緊張していたが、やっと安堵したときの涙かもしれない。

 

 母親はなぜ消えてしまったのか? その理由は描かれていない。鑑賞者のなかにも、その理由がわからなくて、物語を追えなくなり醒めてしまう場合もあるだろう。映画の製作者は理由をあえて教えなかったのか。いや、そうじゃない。理由はあってもなくても「そういうものなんだろう」と事実を受け止めなくてはならないのだ。

 

 北欧(ケルト)神話には伝説や伝承の宝庫ともいわれている。たとえば、宝物のありかを知っているレプラコーンや、死を予告して泣く女の妖精バンシーなど。この映画に登場するセルキーとは、海中ではアザラシとして生活し、地上では毛皮を脱いで人間として生活している妖精である。


 男のセルキーは好色で人間の女を誘惑する。一方、女のセルキーは人間の男に恋することはあまりないのだが、変身する姿を見られてしまうと、人間の男に毛皮を隠され言いなりにならざるを得ない場合もある。そのときは無理やり結婚させられ、家族を残した海を恋しく眺めながら、悲しく余生を過ごさねばならない。

 

 しかし、この妖精の話にもさまざまパターンがある。たとえば、セルキーが毛皮を見つけ出して海に帰ってしまうとか、愛した女性がセルキーであることを知らず、気づいたら彼女は海に帰ってしまっていたとか。悲恋に終わるものが多いようだ。

 

 この作品でも、白く光るコートが登場する。まさしくセルキー神話の毛皮がモチーフになっているアイテムである。

 

 再び書くが、こういう伝説や神話を知らないと、鑑賞者のなかにはストーリーが行き詰まってしまうことがある。

 

 日本にも類似の内容の伝説がある。かぐや姫の昇天、あるいは羽衣伝説である。羽衣によって天から舞い降り、白鳥の姿で水浴びをしている天女に人間の男が恋をする話である。男が天女の帰還を阻止するために羽衣を隠してしまうなど、セルキー神話との共通点がいくつか見られる。そう考えると、セルキー神話を知らなくても、「母親が消えた理由」は知らなくても、かぐや姫や羽衣伝説に置き換えれば納得できるはずである。

 

 誕生した時代も場所も異なるのに、神話や民間伝承の内容が近寄ってしまうという事例は、比較文化人類学のなかで教えられている。人間が食べものを探して移動するなかで同じような話が伝播されたのか、あるいは、なにかの偶然で同じ伝説が多発的に存在すると思われる。個々の民族の神話や伝説は、人類の普遍的な部分に触れているような気がして神秘的である。この作品も、遠い海の向こうの国で作られているのに、どこか懐かしさを感じさせ、不思議な気持ちになる。

 

 デザインについていうと、日本のアニメを見慣れている人たちは、一種新鮮なものを感じたのではないだろうか。小学校教科書にも採用されている『モチモチの木』の挿絵に似ている。版画のような切り絵のような、独特のデザインである。映画を観るとき、まるで絵本を開くような気分になった。

 

 この映画のテーマのひとつとなっているのが、人の「ネガティヴ」な感情である。作品では、「悲しみ」や「怒り」などの「負の感情」を、文字通り取り除いてビンのなかに閉じ込めることで、心のバランスを保つというシーンがある。また、巨人の息子が「悲しむ」姿を見たくないために、母親のマカ(フクロウの化身)が魔法で息子を石にするエピソードもある(映画では、息子が流す涙が大量にあふれ、全世界が海になってしまう、と母親が危惧したからである)。

 

「悲しみ」や「怒り」などの感情が起こったとき、それとどう取り扱ったらよいのか、どの人間も文化も必ず直面する問題だ。その解決法は「感情を取り除く(=石になる)」でよいのかという難解なテーマが、この作品にはあるのだと思った。

 

 これは世界遺産の「負の遺産」とも関連しているのではないだろうか。「負の遺産」は世界遺産条約のなかで明確な定義があるわけではないけれども、人類が犯してきた過ちを記憶にとどめ、後世への教訓とする遺産と考えられている。貴重な文化財や自然環境を保護・保全する世界遺産条約で「負の遺産」と考えられる遺産が登録されている理由は、「記憶にとどめる」というところにある。

 

 辛いできごとや悲惨な記憶を思い出させる遺産を残すのは、とても勇気のいることだが、ひどい苦痛の記憶としっかり向き合うことが、逆に人々の心のバランスを保つという文化財の「レジリエンスとしての効果」が、最近注目されている。「負の遺産」の議論のなかで、「加害者」と「被害者」はどのように価値のなかに含まれているのか、と取り上げられることがある。しかし、人道上の罪を犯したナチス・ドイツ以外は、基本的には加害者を断罪する内容は価値に含まれていない。無差別殺戮兵器である原爆の投下も充分、人道上の罪を犯している気はするけれども。

 

負の遺産」とは、その遺産に関連する人々の心を癒す存在であるという考えかたが、そこから見えてくる。人は「哀しみ」や「怒り」を忘れようとして別のこと(アルコールやギャンブルなど)に心を逸らさずに、ずっと忘れない、何度も思い出す。人の感情は変化しても、人の「記憶」は変化しないし消えない。最初は耐えられないだろうが、時間をかけて徐々に耐えられるようになり、直視できるようになり、思い出しても平気になる。「心が石に」なった人は、すでに人ではない。そう考えると「負の遺産」は、ネガティヴではなくポジティヴな存在だといえる気がする。

 

 涙腺崩壊の謎はまだ解けない。この作品を鑑賞してすぐに思い出したのは、『L'Enfant qui voulait etre un ours シロクマになりたかった子ども(2002、フランス・デンマーク合作)』である。この作品は、イヌイット神話を元にしたファンタジー・アニメーションである。

 

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 とあるシロクマ夫婦は、妊娠した子どもが死産であったため、母親がすごく哀しみ、ご飯を食べられなくなる。父親は心配して海や川で魚を捕り母親に差し出すが、食欲のない母親は徐々に生気を失う。

 

 あるとき、赤ん坊のいるイヌイットの夫婦の家を父親は見つけ出し、母親を喜ばすため赤ん坊を盗む。母親は喜んで赤ん坊を受け取り、子育てする。

 

 一方、人間の母親は赤ん坊がいないことを知ってひどく嘆き、執念深く赤ん坊を探し続ける。赤ん坊が少年に育つまでにもいろいろあった。獲物を捕るのが下手で、海に潜るのも下手で、周りのシロクマたちに「お前は人間の子どもだ」「シロクマにはなれない」とさんざんバカにされるが、それでも人間の少年はめげない。アザラシやカラスと話をして仲良くなるが、赤ん坊を探し続けた母親が少年を見つけて、家に戻す。服を着せるが居心地悪く、人間の集まりに近づくと「ケモノくさい」といわれる。人間の少年はもはや人間にはなれず、服を脱いで海に潜り、本物のシロクマとして生き続ける。さすがに涙腺崩壊はしなかったが、心の琴線に触れたような気がしたので思わずDVDを買ってしまった。

 

 「人間」と「人間でない」もののあいだには、さまざまな葛藤があるが、隣接しあった生き物はいずれ溶け合って親しくなる。「人間」と「シロクマ」は、種類が違うが互いに見慣れたもの同士で、それが神話になったと思われる。『Song of the seaソング・オブ・ザ・シー 海のうた』は、「人間」と「妖精」が混じり合い、そして引き裂かれた神話だろう。これもDVDを買ってしまったが、いつか涙腺崩壊せずに鑑賞できるようになりたいものである。

 

 混じり合ったものが引き裂かれるとき、わたしは涙を流す。それはおそらく哀しみの涙だろう。でもそれらが引き裂かれたときには、本人が喜んでいるような気がして、同時にわたしも喜びの涙を流しているだろう。

 

 これらの二作品は、哀しみと喜び、悲劇と喜劇の入り混じった物語である。単純にジャンルで引き裂いてはならないと思う。感情とはひとつだけではない、複雑に入り混じったものだ。感情の海、思考の海、精神の海に深く潜りながら、わたしは宝物を見つける。最初は顔をつけるのが苦手な人もいるだろう。だが、心配しないでほしい。わたしだってできるのだから、あなたにもできるはずだ。

本の花束(15)川口有美子・新城拓也『不安の時代に、ケアを叫ぶ(2022、青土社)』

 青土社のプレゼントキャンペーンでいただきました(先着順)。哲学科専攻だったので、学生時代から青土社にはお世話になっております。代わりに書評を書いて自分のブログにアップしようと思いますが、雑誌のように字数制限がありませんので、あまりに長くなったら申し訳ございません。はじめに断っておきます。

 あと、わたしの文章はひじょうに冗長です。それに正解も解決もオチもありません。読者諸氏にとっては無意味で退屈なクソ面白くもない書評です。だったら読まなくて結構です。あなたには絶対にわかりませんし、結局わたしもわからないまま死ぬでしょう。そういうことです。

 

1)難病ALSとSFの設定について

 この前に読んでいたのはチョン・ソヨン『となりのヨンヒさん(2019、集英社)』という短編SF小説集でした。その前は『最後のライオニ 韓国パンデミックSF小説集(2021、河出書房新社)』でした。チョン・ソヨンつながりとSFつながり、そしてパンデミックつながりでここまで読んできました。ぶっちゃけ乱読派です。

 著者のお一人である川口有美子さんは、ご母堂がALSになり、彼女は母のケアラーになりました。そして母が亡くなった十数年前、彼女はALSに特化した介護事業所を立ち上げ、いまでは厚労省ロビイストになりました。かかる経費はすべて手弁当です。「一貫した信条は経営にあらわれる」とよく言いますが、「ALSは難病か? 障害か?」「一度つけたら日本の法律は呼吸器を外せないから尊厳死だ、安楽死だ(だったら安楽死できないように根本的に法律を変えてやれ)」という、医学と看護学生命倫理学、あらゆる情報と知識と経験を総動員した難関な議論や、患者家族をめぐる生死を超えた問題、もはや誰にも正解はわからない、そう、まさにSFの世界を現実に懸命に生き、ご自分のケアの経験を根幹としてALS患者家族の生活支援の問題を問い続けている彼女を、わたしはいつもいたく敬意を表しています(いまは傍観しかできません。本当に申し訳ないですし、これらの問題を考えるとどうしても“常識的な無知”のひとたちに憤りを感じてしまいます)。

 わたしは専門家ではないのですが、緩和ケアとは、主にがん(不治の病)による苦痛を和らげるため、患者の症状に合った鎮痛剤を処方しケアすることです。しかし、ALSの苦痛とは、身体的苦痛だけでなく、家族同士やコ・メディカル関係の「ちょっとした言葉」のぶつけ合い・傷つけ合い、要するに精神的苦痛も当然あります(ALSとは全身が動かなくなる病気ですが、認知症とは違います。頭は最後までクリアです)。

 そもそもALSという難病がSFじみています。脳(運動神経)の病気で、だんだん身体が動かなくなり、治療法はなく、しかも対処療法で、最後に呼吸が止まり、人工呼吸器をつけないと生き続けることはできません。介護している家族は無力感に陥り、いつも患者の傍を離れられず、憂鬱で、毎日が引きこもりの生活で、出口のない暗いトンネルを歩き続けているようです。生きているからにはご飯やおやつも食べるしお酒も嗜むし(胃ろうからの流動食)、お風呂も着替えも外出もするし、つねに身体を動かしていないと関節が固まるし、また痰の吸引も定期的にやらないと、ひとりで放置してはあっけなく死んでしまいます。ALS患者は、まるで荒野にとり残された温室の可憐な薔薇のようです。川口さんご本人は「温室で蘭を育てるように(ALS患者をケアすること)」と言いました。

 一時期、「(サボテンやポトスを枯らすような)砂漠女」と自嘲する言葉が流行りました。それくらい「ずぼら・がさつ」なこと、つまり「女らしくない」ことをアピールして居直っているのだと思いました(ちなみに川口さんの介護事業所のALSケアラーたちは男女ともに所属しています。仕事の質を常に向上しようとする心と性格・ジェンダーは無関係だと思います。ついでに書くと、観葉植物の世話をどんなに気遣い、水やりや肥料をやってもやはり枯らしてしまうひとは、残酷なようですが植物を持たないほうがいいと思います。「砂漠女」が観葉植物を所有することはエゴイストそのものです)。ならば、自嘲する連中はとっとと運動神経障害になって、「ずぼら」で「がさつ」で不勉強なヘルパーだけに囲まれ、悩む時間は連中にとっては贅沢だから皆無で、あっけなく死んでしまえばいいと思います。枯らされたサボテンやポトスと同じ立場になればいいと思います。

 

2)パンデミックトリアージ

 そこへコロナウイルスによるパンデミックに世界中が襲われます。高齢者や基礎疾患のある人たちは罹患すると重症化します。最終的には急性肺炎にかかり、呼吸器不全で多くのひとたちが亡くなっています。糖尿病のわたしも重症化する危険性がありますが、ひとり暮らしのため、幸か不幸か、他者から空気感染する契機が少なくなっています。いまはひとりで生活して他人に干渉されることなくせいせいしていますが、身体障害者で50を過ぎたわたしは、やがてひとりでは生活できない日が来るでしょう。

 いまからほぼ100年前、スペイン風邪が猛威を振るいました。世界第一次大戦インパクトが強すぎて世間では忘れているのでしょうけど(第3波まで来ました)、コロナの第7波も来ないとは限りませんし、いつ収束するのかも誰にもわかりませんから、慎重にしないといけません。だからといって、わたしたちにはもうなす術がなく、ギリギリの崖っぷちに立っている状態です。コロナウイルスは空気感染で、肺呼吸する人類が罹患するかしないか、極論すると運命だとわたしは思っています。マスクの有無は関係ありません。気休めにすぎないのです。

 トリアージとは、災害発生時などに多数の傷病者が発生した場合に、傷病の緊急度や重症度に応じて治療優先度を決めることです。災害時の医療救護に当たっては、現存する限られた医療スタッフや医薬品等の医療機能を最大限に活用して、可能な限り多数の傷病者の治療にあたることが必要です(東京都福祉保健局サイトより引用)。

 悪意ある解釈によると、つまり、トリアージ」という名の『蜘蛛の糸』、五輪アスリートによる「金メダル(勝者)はたった一人」の、単純なストーリーのことです。深刻な病気になってまで、なぜ市場経済的で弱肉強食的な「パイ(=人工呼吸器)の奪い合い」をしなければならないのでしょう。パイが足りなければ「パイを増やす」ことはできないのでしょうか。極端に物資が少ない時代ではありません。なんとも不思議です。

川口「もし〇〇になったら、どうするのか?」という「たら・れば」言葉は、終末期医療に「あるある」話のひとつ。「もし呼吸できなくなっても、人工呼吸器をつけないでほしい」「もし人工呼吸器をつけるよな状態になったら、治療をやめてほしい」……。そうした「もし」をどうして若葉マークの患者当事者が、そうなる前に決めて文章にしておかなければならないのかと、ずっと疑問に思ってきました。実際「事前に決めておいたほうがいい」ことは、死ぬためのことで、生きるためのことじゃない。「もし治ったらどうするか」といった希望的な「もし」はほぼ出てこない。最悪な状況に備えておくという医療の発想が、病人によくない影響を与えていると思ってますよ。責任を取らなければならない立場にいる、と思い込んでいるひとたちが、当事者の言責をとっておきたいということでしょう? これは病院だけじゃなくて、学校や企業でもしょっちゅう起きていることと同じだと言えば、想像つくひとはつくでしょう。

新城 病院内の委員会だとかはそうですね。私なんかも「“もし〇〇になったら”について考えといて」と言われたりする立場でした(苦笑)。そういう「たら・れば」の会議が嫌になって、勤務医を辞めたというのも開業の理由の一つです。最悪の状況に備えて議論しても、実際に今のように最悪の状況になったときには、そのときの新しいメンバーで新しく考え直すしかないからです。時間の無駄だと感じていました。

川口 とにかく生身の患者よりもルールが大事なんですかね。それで、ALS患者自身がゲリラ作戦で、学会や研究会に乗り込んでいって、呼吸器を装着しないひとの意思決定支援なんて演題の発表者には質問するようにしてきたんです。

 

 すでにご存知のかたもいるように、痰の吸引は看護職がやる「医療行為」なので、介護ヘルパーには不可能だから「生身の患者よりルールが大事」なんて言わせない、川口さんの事業所は命が大事なので介護ヘルパーたちにどんどん痰の吸引をやらせていました。ALSのヘルパーだったわたしも痰の吸引をやりました。

 拡大解釈するとして、コロナウイルスパンデミックにより、人工呼吸器のトリアージが実際に起こったとき、同時に「痰の吸引→看護職の増員」が必要になります。人工呼吸器だけがあっても命は救えません。

 

3)安楽死とセデーション(鎮静)

 2020年7月、京都でALS患者の女性がSNSで知り合った医師2人の手を借りて「安楽死」したという事件の報道がありました。報道では「安楽死」でしたが、わたしは「自殺幇助」で医師2人が逮捕されたと解釈し、川口さんは「嘱託殺人」ということなのですが、いずれにしても、日本の法律は「安楽死」が可能ではなく、「刑法 殺人罪」で医師が捕まる現状ですし、その報道を受けてALS患者も「安楽死したい」と触発されることは、苦痛緩和ケア医の新城さんの経験では皆無だったと言います。

 

川口 新城さんの患者さんは、先生が末期のひとの苦痛緩和ケアを一生懸命考えているとは知らず、地域の普通のクリニックの医師と思っているんですね。

新城 市内病院のリストに入っているんです。「この先生は往診します」と。その一人にすぎません。

 それと同時に、大きい病院で働いているからこそ見えてくるものがある。それは、緩和ケアがどれくらいの質のものかを確認することが重要だということです。私は大きい病院では普段、他の医師の臨床について監査をしているんです。外科や内科、耳鼻科、泌尿科、婦人科、脳外科…頻度の違いはありますが、ほとんどすべての診療科の病棟に行くんです。そこで、医師と患者の間にどんなやりとりがあったかを見るんです。カルテで、主治医と患者さんとのやりとりを確認して、良好な関係にあるのか、説明が十分にされてるのか監査するのも緩和医の仕事だと思っています。

川口 すべての診療科に足を運ぶってすごい。それで、「それは本人にはきちんと説明したり、相談したりしているんですか?」とか訊くんですか。重要なお仕事です。

新城 監査して、コメントして、口に出し、カルテに残す。時々は、看護師さんに助言を与えるんです。「患者さんは、この辺りの認識ができていないので、もう少し説明を加えたほうがいいです」といった感じです。緩和ケアの病棟で勤務していたときは、自分の治療も絶えず周囲の医療者から監査されていました。医師が二人、看護師が二〇人くらいですから、相互監査になります。一人の医師の独断で無理な指示が通せない。そういう指示が通りやすいのは、医者の力が強い田舎の病院ですね。現にいくつか事件が起こっています。

 二〇一七年、島根県の病院で安楽死事件が起こったんですよ(「“最終的な治療”は許されるのか ある医師への取材記録」『NHK NEWS WEB』二〇二〇年一二月二三日)。塩化カリウムを注射しています。患者さんを「楽にしてあげよう」と医師が考え、実際に投与したのです。

川口 それは患者さんが「痛い」と言い続けるからですか?

新城 どんな治療を施せど回復しないからです。寝たきりと肺炎を繰り返して、何回メカの入院だったそうで、その患者さんをずっと診ている医者だった。ですから「もう楽にしてやろう」と思ったようです。家族と医師が話し合って、「もう今日で終わりにしよう」と。

川口 でも、本人は承諾していないわけですね。

新城 もしかしたら、医師と患者さんの間できちんと事前に話し合っていたのかもしれません。詳細はわからないのですが。しかし報道の内容では、患者、家族共に同意がないようです。いずれにしろ、病院内の相互監査が十分に機能せず、たった一人の医師の判断で実行できてしまうことに、私は違和感と問題を感じました。

 

新城 先ほど私は監査が重要だと申しましたが、ケアの質が落ちていないか、きちんと見張るひとを組織のなかにつくろうと上のひとが思わないとダメですよね。もちろん、そうした立場は組織の利害関係外のひとから選ばれるべきですが。

川口 院長がしっかり職員を把握されている病院は安心なんですが、そうでないと院内のケアの改善はなかなか難しそうです。病院長は当事者ピアサポーターを病棟に送り込んだらいいですよ。厳しい目でチェックしますよ(笑)。

 実は以前似たようなアイデアを難病ケアの研究会で提案したことあるんです。病院の倫理委員会には当事者アドボカシーをいれるように、って。病院にコンサルテーションを常駐させるなら、そこに患者の代弁者も必要だって言ったんです。もめごとになるのを避けるなら、双方に代弁者がいたほうがいいと思って。議論にもならず却下されましたけど(笑)。

新城 私も一五年目くらい前、緩和ケアの質を上げるために医者同士で議論をしていたとき、ピアレビュー(専門家仲間が研究内容を公正に評価・検証すること)をしないと絶対よくないっていかないという話をしていました。

 ピアレビューをしようと思ったら、近くで働いている病院の職員が人事交流しないといけません。結果的に緩和ケアの研修会がその枠割を担うことになりました。今ではほとんど研修医しか参加しませんが、以前は多くの開業医なんかも参加していました。

川口 ぜひ復活させてください。それにはがんのサバイバーなんかも入れるんですか?

新城 患者さんの参加はできません。いやそれ以前に残念ながら、そのピアレビューは全く行われていません。

川口 なんだ、医者同士の交流もできないのでは、患者のピアサポーターを院内に入れるなんてすごく難しいことのように思われますが、絶対そこに当事者サバイバーが入ったほうがいいです。

 私、こうしてなんでも病院のことを批判しているみたいに思われるかもしれませんが、国立病院機構の院長がたくさんいらっしゃる研究班に長い間協力者として入っていましたし、院内の看護の内容とか深刻な顔つきで私に相談してきた院長や看護師長もいましたよ。だからというわけではないのですけど、病院の評価を行う機関に、当事者や障害学の専門家がいたほうがいいです。院長が言いにくいことを患者や障害者サイドから言うといいです。ユーザー評価って大切。それでケアの質が高まるのなら、なおさらです。

新城 日本医療機能評価機構という公益財団法人による、病院を評価し質を高めていく機能は存在しているのですが、実際やられていることはマニュアルの有無をチェックしたりするといったものに留まっています。はっきり言って、使わないようなマニュアルをたくさんつくって面倒なだけでした。

 

川口 ところで在宅での看取りの話に移ります。例えば、家族がちょっと目を離したすきにひとは亡くなるのかなって思ってますが、どうですか? うちの母や友人の死に際がそうだったんです。

新城 むしろ私は、「ちゃんと立ち会ってほしいひとを集めて死ぬんだな」という実感があります。死ぬ時間については、自分自身である程度調節ができるのではないかと疑ってしまうほどです。例えばわざとみんなが集まれる月曜日を選んでいるんじゃないかとか、わざと朝になってから逝っているんじゃないのかとか。

川口 不思議なことがいっぱい起きますよね。死ぬ前後は。

新城 今週まさにこんなエピソードを体験しました。亡くなる前に、「ひとはなぜこんなことを今言い出すんだろう」ということを言い出す体験です。「あの自転車は孫の〇〇にやる」と言って亡くなった方がいたんです。遺産は誰に、土地は誰に、家は誰にみたいな話は確かによく耳にしますが、「あんなにぼろぼろで動かない自転車を孫にやるってどういうことだろう?」と家族の方は、笑いながらびっくりしていました。正直、本当にどうでもいいことを言い出すんです。

 

4)コロナ時代の入院と在宅医療のジレンマ

新城 二〇二〇年の一二月中旬以降から、現場の緊迫感が増してきました。それまでは、報道の大きさに比べて、実際に診療している患者さんの新型コロナウイルスの感染はなく、内心「どうしてこんなにみんなの生活を制限しなくてはならないんだろう」と思うところもありました。しかし、この第三波ではコロナ病棟のベッドも足りなくなってきていて、私が勤める神戸市内でも患者さんが入院できる病院が限られてきていました。

自分も勤務している病院では、二〇二〇年からプレハブのコロナ病棟が二棟できました。これで入院患者が集約できるようになりました。[…]

 現在の状況について神戸市内がホスピス、緩和ケア病棟に実際に訊いてみたのですが、基本原則として家族一人、一五分までという面会制限があります。そして、亡くなる前には二人までと少し制限が緩むことがありますが、十分に最期のときを過ごせるという状況ではありません。

川口 私も父の面会の折に、病院からそのように言われました。あ、前回お話ししたことと重複しますけど、父は昨年(二〇二〇年)の春、ちょうど新型コロナで首都圏が最初の緊急事態宣言下に入った頃(四月七日が最初の緊急事態宣言で新規感染者は八七人だった)に、大腸がんの摘出手術を受けたんです。三月二五日に小池百合子東京都知事が緊急会見で「感染爆発の重大局面」(都はこの日四一人の新規感染者を発表)だと言って、週末の不要不急の外出自粛要請を出して、都内には瞬時にひとがいなくなりました。銀座を歩いてもひとがいないんです。それで、これはもうすぐ医療資源が足りないという話になるだろうと思いました。高齢の父の手術はギリギリで間に合ったと思ったんです。それでも最初の病院では、もう高齢だし、体力的に無理じゃないかって言われていました。それでも父は手術を受けたいと言ったので、セカンドオピニオンを受けた病院に転院して、手術してもらいました。

 

 

 最初のほうに戻りますが、チョン・ソヨン『となりのヨンヒさん(2019、集英社)』というSF短編集は「居場所をつくる、取り戻す」のがテーマらしく、難病や障害の子どもが出てきて、この星は身体に合わないから宇宙船で遠くの星を目指して旅します。SFにはさほど詳しくありませんが、ときに創造力で真実を描く貴重なSF作品もあります。わたしは著者の優しくて切ない筆致がとても気に入り、心が癒され、いつかわたしにもALSをテーマにしたSF小説が書けるかもしれない、と希望が持てる気がします。

 ノーベル文学賞作家の大江健三郎は「書くという行為は自己救済だ」といっています。川口さんにとってALS患者当事者と患者家族の生活支援の活動も、他者(あるいは、かつて母を介護することで精神的にかなり荒廃し消耗した過去の自分)を取り戻し、救済することによる自己救済だと、わたしは思います。

 もしもわたしがSF作品を書くなら、川口さんという登場人物を出さないわけにはいきません。川口さんは、ドラクロワによって描かれた『民衆を導く自由な女神』です。絵を見ればわかるように、フランス7月革命を主題にした、堂々と民衆を扇動する、力強くて勇敢な女性です。当然ですが、現実の川口さんも存在します。でも、彼女が見ているのは希望に満ちた未来そのものです。それを通してわたしはSFを夢想します。夢見るだけで、自由と勇気と活力が湧いてくるのです。

小栗判官と照手姫

小栗判官(をぐりはんがん)』とは説教節の代表作である。大学時代わたしは一般教養の授業に出席しており、この説教節を聞いた。なので特別詳細なエピソードはない。ただ、タイトルの小栗判官は旅の途中で騙されて毒を飲まされ、皮膚は爛れて化け物のようになり、非力で無用で役立たずで、後の物語の展開は照手姫の大々的な活躍によるものだった。後々わたしが思うのは、照手姫はフェミニストのように力強く機転が利き、最終的には小栗判官を導いて彼を救うのである。それは「銃後の守り」とでも言うような消極的な後方支援では決してない。

 説教節は各自ググってもらいたい。落語と同じく、現代では無形文化財でありながら後継者不足で滅亡の危機に瀕している。わたくし思うに、一因には外国による商業映画などの植民地文化が起こり、やがて日本独自の説教節はいつのまにか消えてしまったのでないだろうか。

 それは商業だけでなく精神的なパラダイム変換も確実に起こっている。中世の日本は家父長制支配下にいたが、奇跡的にも『小栗判官』のような逸脱した物語が存在した。その奇跡的な無形文化財を舶来文化の洗脳で汚してしまい、無化・否定してしまい、ついには消滅してしまうのだ(具体的には山坂険しい土地を巨大ブルドーザーで均して平地と化した再開発である)。かつて帝国主義かつ植民地文化で洗脳し、次は人種差別と男女差別で再洗脳する。説教節なんて見たことも聞いたこともない日本人が増えてきているのに、現在では英語圏ではフェミニズムやポストコロナリズムやポジショナリティやクイア理論やジェンダーをわざわざ<輸入して>学ぶのだ。なんと嘆かわしいことであろうか。
 貴重で奇跡的な文化は消滅と同時に復活する。近年では梅原猛作のスーパー歌舞伎オグリ(初演1991)』、大野一雄による舞踏『小栗判官照手姫(1994)』、遊行舎による遊行かぶき『小栗判官と照手姫――愛の奇蹟(2001)』(説教節・政太夫)、宝塚歌劇団花組公演『オグリ! 〜小栗判官物語より〜(2009)』、オペラシアターこんにゃく座公演・オペラおぐりとてるて(2014)』、横浜ボートシアター仮面劇『小栗判官照手姫(初演1982)』などがある。また1990年、近藤ようこによって漫画化・発表され、詩人・伊藤比呂美の新訳『説経節 小栗判官しんとく丸山椒太夫(2015)』もある。これほどまでに復活した物語を、いまだ知らないと言う人々もいる。

 学問・研究は平等で無偏見と言うが、わたしが知る限り、学問・研究はあくまで個人的興味・関心が萌芽の拠所である。所詮、個人の好き嫌いや偏見があり、学問・研究の発展は結局のところ恣意的なものではないのだろうか。専門家・研究者はスペシャリストであってジェネラリストではない(そもそもは欠陥だらけの人間個人である)。ジェネラリストではないが、個人の偏見には客観的、意識的でいてもらいたいのだ。

マルグリット・デュラスからジョルジュ・バタイユ、そしてモーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』(朝日出版社、1984年)について(2)

……あなたは、愛するという感情がどうやって起こるのだろうかとたずねる。彼女はあなたに答える。「おそらく、世界のロジックの突然の裂け目から」彼女は言う。「たとえばある誤謬から」彼女は言う。「意志からは絶対に起こらない
マルグリット・デュラス『死の病い』)

『死の病い』はアルコール依存症で入院中のデュラスが、ヤン・アンドレアに口述筆記させた晩年の小説です。アンドレアがまだ学生だったときデュラス監督の上映会に参加したときに知り合うのですが、彼はゲイであると知って、デュラスはそれでもなお自分を性的に誘惑してこないと密かに嘆いていました。二人はいずれ恋人関係になりますが、肉体関係があったかどうかはわかりませんし、肉体関係よりも深い関係があったのかもしれません。その証拠に、口述筆記という共同作業があったのだと思います。

 以下は『死の病い』の訳者あとがきです。

 エマニュエル・レヴィナスは『時間と他者』のなかで、卓越した恋愛観を披露している。「性の二元性はひとつの全体を前提としている。ということは、愛を融合として、あらかじめ想定することである。愛の悲劇は、諸存在の克服しがたい二元論のうちにある。それはつまり、いつまでも永遠に逃れ行くものとの関係である。(中略)愛撫とは、主体が他者との接触においてこの接触の彼方にまで行くような、その主体のひとつの存在様式である
問題はこの「愛は融合という前提」にある。ヴィルコンドレの解釈が「肉の深淵における融合」を前提にしていることは指摘するまでもあるまい。だがその前提を疑ってかかる者もいるのである。モーリス・ブランショは、デュラスの『死の病い』を論じた『恋人たちの共同体』のなかですでに、いまのレヴィナスの論述を踏まえながらこう書いていた。「彼らは互いに身を接してその(共同体の)傍らにおり、この近接があらゆる種類の空虚な親密さを経由して、彼らを《融合に似た、あるいは合一に似た》むつみ合いの喜劇を演じてしまうことから保護している」。
 こういう喜劇を拒否し、「接触の彼方」に赴くデュラスの姿をアンドレアはちゃんと書きとめている。「ただひとりで神と向き合い、明白で、倦むことなく繰り返される指令に従ってあなたは書いてゆく
 だが、デュラスがただひとりで向き合う神とは、不在の神である。その点をアンドレアはきちんと記録している。「あなたは言う。《神というのは、どんな場合でも、黒いからっぽの箱以外の形では表示不可能よ
 パスカル同様に、「あなたは、信じたいというあなたの願望をわめきたてる」、デュラスを論じてこの急所に視線の届いていない文章は、読んでいてむなしい気にとらえられる。デュラス自身がアルコール耽溺を分析してこう語っている。
神が欠けている――若い日に気づいたこの空虚さは、どんなことをしてみたところで、空白なんかなかったようにするわけにはいかない。アルコールは、世界の空虚さ、惑星間のバランス、空間におけるその平然たる回転、人間の苦悩に対するその深閑たる無関心さを耐えるのに適している。飲む人間というのは宇宙的人間なのよ。彼が動くのは惑星間の空間よ。(中略)アルコールは何の慰めにもならないし、個人の心理的空白など満たしてくれず、神の欠如の代わりにしかならない。(中略)アルコールはその(神の)創造の代わりをつとめるために存在してるのよ。神を信じてしかるべきなのにもう神を信じていない一部の人たちに対して、例外なしにアルコールはその創造代役を果たしているのよ。アルコールは不毛よ
 ヤン・アンドレアがデュラスの執筆現場に居合わせての記録は、やはり貴重な資料と言わねばならない。彼女が見知らぬ少女にあてた手紙を書くときですら、句読点の打ち方に腐心する様は、日頃から文章の区切りかたに、作曲家がフェルマータ記号を扱うのに似た細心の注意を払っていることがしのばれる。
 また、書き上げた『死の病い』をアンドレアに朗読させ、自分の文体の「声質(こえしつ)」を確かめてゆく姿勢には、メッセージ自体よりも、その文章を書くときの心の息遣いのほうを重視する特長が窺え、彼女特有の、繰り返しの多い短いフレーズによる文章構成法が耳の検討を経てゆく機微を伝えている。『ヤン・アンドレア・シュタイナー』に拠ると、そもそもデュラスに惚れ込んだ最大の原因も、その声にあったようだ。

 マルグリットとアンドレアは、傍からは年上の妻と若い夫に見えますが、実はヘテロ女性とゲイ男性です。日本の現代のカップルで思い出すのは、中村うさぎとゲイ男性が結婚したことです。このケースでは、ゲイ男性が香港の出身であり数年に一度香港へ帰らないと労働ビザを取得できないからという理由がありました。ゲイ男性には恋人の男性がいたような気がします。
「あの人、ハンサム/美人なのにいまだに独身だなんて。きっとゲイ男性/女性に違いない。」昔はよく(異性愛者の視点で)こう邪推されていました。ところが現実には、異性カップル/既婚カップルに見えるけれども実際はそれぞれのセクシュアリティは違うのだ、と。
 ふたりでいること、カップルであることは、最小限の「共同体」です。ところがその共同体はもろくも崩れ、単独者でいることを拒みようがありません。

「グループ、歴史、言語の誕生を司るものは犯罪である」
(ジュール・アンリケス『部族から国家へ』)
ジョルジュ・バタイユはつねづね、内的体験はその出来事をその失寵とその栄光とを担うだけで自足してしまう単独者に限定されたものであったら、起こりえなかっただろうと主張していた。つまり体験が成就されるのは、それが不完全性のなかに執拗にとどまりながら分かち合われ、その分かち合いの中でみずから限界を露呈し、その限界の中におのれをさらすときである。体験はその限界の侵犯をおのれに課すが、それはあたかもこの侵犯によって<単独で>それを侵犯しようとする者からは逃れ去るある法の絶対性の幻影あるいは宣明を出現させるためであるかのようである。その法とは従って共同体を前提とする法である(共同体すなわち、体験独特の特徴に含まれていると思われる語ることの不可能性を、たとえつかの間ではあれ、わずかな言葉で打ち破る二人の特異者の間の相互了解、あるいは共通の同意。その唯一の内容は、伝達不可能ということ。それには補足がある、伝達不可能なもののみが伝達に値する、と)。
モーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』)

 

(2021年11月24日)