クイア・プラクティス

ノン・ヘテロの身体障害者。雑文書き。観て読んで考えて書く。それが反応。

「SNSの暴力的拡散性」と「本人の肖像権問題」

先日、FBの友人が「アルツハイマーバレリーナの映像がツイッターで一気にリツイート(拡散)されるのがちょっと怖い。違和感がある」というようなコメントするのを見て、さっそく映像を検索してみた。動画は別に怖くないし、むしろバレエの美しい手つきで優雅だし、でも彼女アルツハイマーでしょ? 同意を得て映像を撮ってネットにアップすることまで本人はちゃんとわかってんのかな? と疑問であった。家族がそばにいて同意することもちょっと考えられなかった。

アルツハイマー」「人前に出る」とのキーワードでまず思い浮かぶのは南田洋子長門裕之である。南田は2004年頃に認知症の兆候が見られるようになり、映画やドラマの科白を覚えられなくなって女優を密かに引退。専門医によりアルツハイマー病との診断が下される。2008年にはテレビ番組で長門が南田を介護する様子が報道される。私も見た記憶がある。当時は長門が番組に出ることを引き受けていたのだろう。たとえ見世物的であろうと夫婦愛の美談で片付けられようとかまわないのだろう、と私は思った。

長嶋茂雄脳梗塞で倒れたのが2004年。右片麻痺言語障害が残ったが、病気で倒れてから約1年4か月ぶりに公の場に姿を現した。杖もつかず両足で歩く姿に「長嶋、復活!」と喜んだ視聴者もいるだろう。しかし彼の言葉はテレビでは一切聞こえてこない。身体の回復は順調だが言葉の回復はそうはいかない。姿はOKで言葉はNGと彼は言っただろうか。おそらく家族が了承しなかったのだろう。あるいはスポーツ業界メディアが自粛して彼のインタビューを録画しなかったのだろう。「スポーツ選手のイメージ(健康)を守りたい」と思っても、彼は野球選手を引退して監督を二度就任している。すでに68歳(現在84歳)なのに、「現役」のイメージをいまだに引きずっているのだろうか。

一方、89歳の大村崑は、80歳を超えて筋トレをはじめ、今では夫婦そろって筋肉がバランスよくついたスマートな写真を撮っている。「最初の3か月はまったく変わらなかったが、3か月過ぎたころに筋肉がつき始めた」と大村は言う。マラソンしたり筋トレしたりする若者も多い。「筋肉は裏切らない」との名言は、それじゃ何(誰)だったら裏切るのだろう、と私は素朴に思った。このターゲットはどこにあるのか。若い世代だろうか、それとも大村崑と同世代だろうか。

テレビ、ラジオ、映画、漫画、雑誌に加えてインターネットや動画やSNS、いまやメディアは増えている。メディアには送り手と受け手がいて、双方が無意識かつ自動的に「何を見せるのか/見せないのか(何が見たいのか/見たくないのか)」の選別が行われる。しかもSNSならその選別は秒速で拡散し、お互いが送り手と受け手の両方だから、一人が「見たくない」のにもかかわらず、ものすごい量のリツイートで見ざるを得ない。コントロール不能なほど暴力的である。最初に書いたアルツハイマーバレリーナの動画について少々引っかかるのは、「SNSの暴力的拡散性」と「本人の肖像権問題」の絡み合ったテーマである。

動画の元ネタは、スペインの団体Música para Despertarの非営利活動で、高齢者施設のボランティア活動として始まり、職員、居住者、家族と協働して行っているそうである。YouTubeでも6年前からこうした映像を多数公開しているようだ。

調査した方のコメントを引用する。

どのような合意があるかは正確には分かりませんでしたが、全く無許可で行われているとは思いませんでした。ただ、正直なところ、団体としてどの程度きちんとしているのかは分かりませんでしたし、また、ツイッターで流れてきてヴァイラルになることに、私も何か違和感を感じました。
この団体の活動の場合、認知症患者の法的能力の問題があることで、それにどのように対応しているのか、きちんと表記してほしいとは思いました。
あと今回思ったのは、この団体のツイートよりも別の団体や個人のツイートの方がリツイートされてヴァイラルになっているので、そうなると活動の趣旨が見えなくなるし、コントロールもできなくなるので、恐いなと思いました。
この団体は法人格を持っており(納税者番号を公開している)それなりにきちんとした団体だとは思うのですが、論文発表などの学術的な手続きを取ることに積極的には見えなかったのと、自分たちが開発した音楽療法の一般的な認知を高めることで何を目指しているのかが分かりにくいと思いました。サイトはグッズ販売、クラウドファンディング、寄付が目立っていて、資金繰りに苦労しているのでしょうが、やはり気になりますね。

さて、ここからは並行して私が読んでいた本(森下直貴/佐野誠『新版「生きるに値しない命」とは誰のことか ナチス安楽死思想の原典からの考察』2020年9月)の引用である。相模原の障碍者施設殺傷事件、安楽死論争、パンデミックトリアージ。近年、さまざまな場面で「生きるに値しない命」という言葉を耳にするようになった。しかし、「役に立つ/立たない」ということだけで、命を選別してよいのだろうか。100年前のドイツで出版され、ナチスT4作戦の理論的根拠になったといわれる『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』の全訳と解説と批判的考察である。長い引用だが読んでいただきたい。

コミュニケーションにはかならず相手がいる。相手がいればそこに役割が生じ、役目の意識がともなう。垂直のコミュニケーションでも同じことだ。たとえば、ボケてみせる。これは認知症の老人にしかできない役割である。あるいは、死んでみせる。これまた終末期の老人や患者がなしうる最後の役割である。人の生死のありのままの姿を見て若い人は「人間であること」を学ぶ。たんに生者からだけでなく、死者からも学ぶことができるのである。
[…]今日の老人像は、家族の世話を受ける受動タイプ(これが一昔前なら当たり前であった)から、個人の趣味を追求する能動タイプへと急速に移行している。ところが、最晩年期の老人像ともなれば、いささか誇張するなら、施設では完全受動タイプだらけ、在宅では自己放棄タイプばかりになる(拙著「<老成学>の構想」)。
最晩年期になると老人の多くは生きる意味を失う。このとき死に方には二つの選択肢が残される。多いのは生命維持装置に囲まれた平穏死であり、ごく少数だけが自分の意思で生を終えている。なお、機械体のなかに意識をアップロードし、サイボーグ化するという選択肢もあるが、現時点では話題にとどまる。
生きる意味は生きる目標をもって活動すること、つまりコミュニケーションから生まれる。できるかできないか、するかしないか、するかあるかにかかわらず、すべてはコミュニケーションである。生きる目標はコミュニケーションとともにあり、コミュニケーションのなかに役割がある。しかし、九十歳の老人にも目標や役割があるのだろうか。もちろん、ある。
老い抜く姿を見せる。どれだけ無様な醜態をさらけ出そうとも、老い抜く姿を同輩の仲間や若い人に見せる。自分の老いを「見せる」ことで「見られる」という視線の循環が、最晩年期を生き生きとしたものにする。生き生きとした姿はそれを見ている人に等身大の尊敬の念を生む(NHKプレミアム「老いてなお花となる」では、九十歳を超えてなお現役を貫いた俳優、織本順吉が身をもってジタバタする姿を見せていた)。こうして尊敬に値する生き方と死に方が世代を超えて受け継がれるのだ。
[…]「老人(自分)はもはや役に立たない」と考える橋田(壽賀子)に欠けているのは、老人がみずからの姿をさらすことを通じて、人が生きて、老いて、死んでいく様を若い人に学んでもらうという視点である。これは橋田がこだわる家族の有無や範囲を超える話である。いかなる状況やどのような状態であろうと、人は生きているかぎり世代をつなぐ役割を担っている。いや、死んでからも生者とのコミュニケーションのなかで死者としての役割がある。老人に当てはまることは、知的障碍をもつ人にも当てはまる。ALSのような難病で寝たきりの人にも、末期がんの患者にも、そして生きづらさを感じて悩んでいる中高年や若者にも、等しくあてはまるだろう。
最後に、「プロローグ」や批判的考察Ⅱの冒頭で紹介した老人の訴えに立ち戻る。
「失禁や嚥下障碍が生じ、オムツを着けて寝たきりの状態になったら、生きていたくない。周囲の人や自分のことまで分からなくなったら、生きていても仕方ない。だから死なせてほしい。できれば、そうなる前に安楽死したい」。
この訴えにいかに答えたらいいのか。私の考えはこうだ。老いを生きてみよう。老いの深まりに応じて生きてみせよう。もちろんボケない工夫と努力は重ねる。しかし、ボケたらボケたで仕方がないではないか。今度はボケてみせよう。見事にボケてみせよう。家族がいてもいなくても、友人や知人、介護ビジネスやデジタル技術を活用しながら、なんとか在宅ホスピスで乗り切ってみせよう。そして人生の最期、親しい人たちに見守られながら、生命維持装置を装着せず、痛みや倦怠感には鎮静剤で対処し、「生きててよかった」と周囲に感謝しつつ、穏やかに自分の生を終えよう。

[…]こう考えるならば、絶対に役に立たない人などいない。どんな状態であっても生きているかぎり、人はコミュニケーションのなかで役割をもっている。老いの深まりのなかでも同じことだ。とりあえず老人には若い世代に人生のありのまま見せるという、世代をつなぐ役割がある。
ここでシェイクスピアの有名な科白が浮かんでくる。『お気に召すまま』の第二幕第七場では、「この世は舞台」「男も女もみな役者」「人生は七幕の出し物」とある。ここまではいい。それを受けて第一幕は「赤ん坊」、次は「泣き虫学童」、その後は「恋する若者」「軍人」「判事」と続き、ようやく第六場に「老いぼれジジイ」が登場する。そして終幕は「第二の子ども、ものを忘れ、人からも忘れられ、歯はなし、味はなし、何もなし」。
シェイクスピアが描く無残な老人像は人生五〇年時代の常識だ。しかし、今や人生一〇〇年時代、誰にも昼がやってくるように、老いがやってくる。死もやってくる。だとすれば、役者として人生を楽しみ、心にゆとりを持ちながら、最後まで生き抜き、老い抜きたいものである。
森下直貴/佐野誠 『新版「生きるに値しない命」とは誰のことか ナチス安楽死思想の原典からの考察』)

先述したMúsica para Despertarの活動もこの著者の考えかたと同根だと思いたいが、ネットを介在することによるメリット・デメリットがある。先述したヴァイラルとは、Webマーケティングにおいて「情報が口コミで徐々に拡散していく」さまを形容する語である。もともと「ヴァイラル」とは英語で「ウィルス(virus)に関係する」「ウィルス性の」という意味を示す語である。Música para Despertarのネット上の活動は6年前からYouTubeで動画を公開しているが、世界中の人々にできるだけ一人でも多く団体の活動を知ってもらおうとするのがメリットで、その動画を投稿者の都合がいいように切り取り、もともとの主旨や意味を削ぎ落して捻じ曲げてしまうのがデメリットである。

また、アルツハイマー患者に音楽を聴いてもらい、自分の人生とその音楽との記憶の接点を蘇らせようとするのが音楽療法であり、その活動を多くの人に知ってもらいたいのは少なくとも私には理解できるが、肝心の患者さんたちが自分の肖像権を認識し、動画を撮ってネット上にアップロードすることを同意するのは、はたしてそこまで理解できるのだろうか。今のところMúsica para Despertarの活動はグレーゾーンである。

 

(2020年11月13日)