クイア・プラクティス

ノン・ヘテロの身体障害者。雑文書き。観て読んで考えて書く。それが反応。

本の花束(5)広河ルティ『私のなかの「ユダヤ人」』(1982年、集英社)

 第2回(1982年度)PLAYBOYドキュメント・ファイル大賞で最優秀作品受賞作となった本書の著者は、イスラエル生まれのフランス人で、1981年3月、フランス国籍を失いました。また同時に、日本における帰化申請は、法務省において「日本社会への同化の程度に疑問がもたれたためである」ことを理由に、許可しないことを決定しました。

私は日本人になるために法務省の指導によりフランス国籍を離脱したが、その直後に帰化は認められないと宣告されたのである。私は日本で、無国籍者になってしまった。

 広河ルティはアムネスティの弁護士の助けで、「彼女は日本人の夫とともに11年以上日本に定住し、その間に日本国籍をもつ二人の子どもをもうけ、何ら日本人と変わらぬ家庭生活を維持している事情にてらし、不許可の理由はまったく説明的ではない」という、帰化不許可の具体的な理由開示の請求を行いましたが、それでもなお法務大臣および法務局長は、その理由を「明らかにすることはできない」との一点張りでした。

 ここで問題となっている国籍法第4条では、帰化の条件を次のように規定している。
1)(帰化を申請するときまで)ひきつづいて5年以上、日本に住所を持っていること。
2)20歳以上で、本国法で(普通の人間としての)能力を有すること。
3)素行が善良であること。
4)自分ひとりの力で、暮らしをたてられる資産、または日本の国籍をとれば自動的に前の国籍を失うこと。
5)現に国籍を持っていないか、または日本のその下に成立した政府を暴力で破壊することを企てたり、主張したことがないこと、またはそういう団体に加入したことがないこと。
 これは「普通帰化」と呼ばれ、次の第5条は「特別帰化」といい、日本人女性を妻とする外国人や日本生まれの人に対してのものなので、条件は第4条よりゆるやかである。さらに日本人男性と結婚した外国人女性に対しては、第6条の「簡易帰化」が適用される。私の場合はこれに該当し、帰化はひじょうに楽なはずだった。
 一方、無国籍者とは法的に存在しない人間のことなのだが、日本では、日本人でない者は「外国人」と規定されるので、無国籍者は「外国人」に含まれるとされる。しかしあらゆる国の庇護が受けられないため、基本的人権すら根底から否定される可能性を絶えずもっている。パスポートがないからどこにも行けず、免許もとれず、そして横浜にある収容所に隔離されることもあり、その人々は引き受け国が見つかるまで何年も収容所生活をしなくてはならない。
 私の場合は特殊な例だが、日本はその歴史のなかで巨大な数の無国籍者を生み続けてきた。第二次世界大戦時、日本がサハリンに連行した4万3千人の朝鮮人のうち4千人余りは無国籍者になった。同じく200万人近くの強制連行された朝鮮人は、1952年に国籍を剥奪されることになった。法務省の通達によれば「朝鮮と台湾は(サンフランシスコ)条約発効の日以後、日本領土から分離されるので、朝鮮人、台湾人は日本本土在住者も含め、すべて国籍を喪失する」とある。在日朝鮮人のほか、沖縄の無国籍児の問題も拡大しています。米兵と日本人女性の間に生まれた子と、その子が成人して結婚してできる子どもで、無国籍者は、現在100人ぐらいと見積もられているが、ここ何年かのうちに数千人になるとみられている。それはアメリカ国籍をとっている子どもたちが、成人して日本人と結婚して子ができるときに同じ問題を抱えることになるためである。
 これらの問題の多くは、日本が父系優先血統主義をとっているからである。しかし、ヨーロッパとても父母平等の血統主義に変更したのは、そう古いことではない。フランスで1973年ドイツで1974年である。そして日本でも法改正が問題になっている。

 生まれも育ちも日本であり日本語を話すわたしは「日本国籍を持つ日本人」ですが、彼女のように疑問も不都合もなく、それについてわざわざ調べることもなかったので、日本国籍を持つのはなんて困難だろう、と初めて思いました。不勉強にもほどがありました。

 イスラエル生まれのユダヤ人である彼女は、フランス領事から「ユダヤ人はすべてのイスラエル人でもあるわけですから」と言われ、法務省の課長からも「イスラエルの帰還法は、世界中のユダヤ人にイスラエル国籍を持つ権利を与えています」と言われました。つまり、「イスラエルは世界中のユダヤ人がイスラエルに移住することを望んでいる」と。

 結局、彼女が日本に帰化できないのは、彼女がイスラエル生まれのユダヤ人だからですそれでも彼女はイスラエル国籍を取らず、無国籍者となりました。と同時に「ユダヤ人とは何か?」という疑問が起こり、アイデンティティ探求の作業として、ポーランド生まれの両親にさまざまな質問をしましたが、彼女は両親や兄姉と、そもそも何語を使って話していたのだろうか、と躊躇しました。まず、<あとがき>で彼女はこう書いています。

 […]私は日本に12年以上住んでいるが、美しくまちがいのない日本語を使いこなせるわけではない。[…]オリジナルな原稿は三つの方法で用意した。三分の一はフランス語で私が書き私の友人が日本語に翻訳したイーディッシュ語の手紙や文章は、私がフランス語に訳して、次に日本語にした次の三分の一は、私がテープに、ヘブライ語と英語のちゃんぽんで吹き込んだものを、隆一が日本語に訳した残りの三分の一は、私自身が日本語で書いたものである。[…]
 父や母が夢の中に登場すると、私はイーディッシュ語を使っていた。兄や姉の場合はフランス語、イスラエルに住む親戚とはヘブライ語、子供たちや義母とは日本語という具合だ。ただ私の結婚相手と話す場合だけは、少し事情が違った。日本語とヘブライ語のミックスなのだ。
 それから十年以上たち、現在私はフランス語会話の教師をしているが、授業以外では日本語しか話さないようになった。食事はいつも箸を使い、タタミの上に布団を敷いて寝る。冬は大抵コタツに入っているし、夏には下駄を愛用している。私の友人はほとんどすべてが日本人だし、私も日本人一般と同じように、夏の湿気に悩まされ、秋のモミジを美しいと思い、乾燥して寒いが陽光には恵まれた冬を素晴らしいと思っている。春の桜の季節は、いつもうっとりしている。
 およそ「権威」なるものに対する日本人の卑屈さは、どうも評価できないが、日本人の持つ素朴さと善良さとは、私にとって新しい発見で、それらを私は愛した。日本はあらゆる意味で、私の肌になじみ、空気のように自然になった。
 日本に同化するというとは、このようなことではないだろうか。同化するにつれ、私には日本の中のさまざまな「ユダヤ人問題」が見えてきた。それらは被差別部落問題在日朝鮮人問題アイヌ問題であり、一人の女としてはこの国の高度に完成された父権社会、母親としては、この国の息詰まるような教育の問題である。それらが一切見えなくなるぐらいにならないと、同化したとは言えないというのだろうか。
 […]
 一方で、私の心の底流に「同化」への不信感が存在し続けたことも事実である。「同化」という言葉には、何かしら欺瞞の臭いが漂っていた本質的なところで、もとの状態が含んでいる矛盾からの逃避という後ろめたさがあった。それは決して、私に日本に解けこむのを止めろとか、ユダヤ人の運命共同体の一員として復帰せよとかいうことではない。私は心のどこかでユダヤ問題にこだわり続けており、そしていまだに世界からユダヤ問題が無くなったわけでもなく、かといってイスラエルも、同化も、この問題の解決ではないと思い続けていたのである。
 […]
「しかし、虐待され、殺害された人々と無条件に結びついているという点では、私はユダヤ人である。私はユダヤ人の悲劇は私の悲劇であると感じている。その点で私はユダヤ人である」アイザック・ドイッチャー『非ユダヤ人的ユダヤ人』岩波新書、鈴木一郎訳)

 両親がポーランドを出てゲットー(強制収容所)に入り、ナチスの手を逃れてイスラエルに移民した経験は、彼らにとっては思い出したくもない苦痛の記憶、ナチスの虐殺という歴史的体験でした。それで彼女は「知る限りの世界中のユダヤ人」「各地のホロコースト研究所、平和主義者、ジャーナリスト、昔の友人たち」「イスラエルキブツ(集団農場)」に手紙を送りました。

 そもそもわたしは「誰が、なぜ、どのようにしてイスラエル政府を誕生させたのか?」が薄々とではありますが、ずっと疑問でした。世界史の教科書は多くを語らず、専門書はわたしにとってハードルが高すぎます。ナチスホロコーストの映画(ドキュメンタリーやドラマなど)をたくさん観ましたが、彼女の両親が生きた道は新鮮でした。「ユダヤ人の地下活動家の決死の覚悟で、アウシュビッツやヘルムノの大量虐殺のニュースが伝わるのは1942年夏のことである」「ワルシャワ・ゲットーは最後の武装抵抗をした。ZKK(ユダヤ調整委員会)とZOB(ユダヤ戦闘組織)がこの任に当たった」。

 そして、1949年4月21日、彼女が三つ子として生まれたのも、両親は「単なる偶然」とは考えず、「生き延びられたこと」「イスラエルの誕生」「三つ子の妊娠(その直前の5月14日)」を「神の啓示」だと感じ、イスラエル移住を決意したのです。

 当時私の両親だけでなく、世界中のユダヤ人をシオニストの側に押しやる強力な状況が存在していた。ユダヤ難民の引き受けをしぶり、ユダヤ人問題を自国内で解決せずにアラブの国に押しつけたヨーロッパ諸国、そして石油産出地帯に打ち込んだ楔としてイスラエル国家を位置づけようとした帝国主義的野心を持つ大国、最後に解放の具体的プロセスを提出することに失敗し、ホロコーストを経たあとのユダヤ人の状況の変化を把握しきれなかった社会主義者たちとスターリンソ連、すべてがユダヤ人をシオニズムの方向に向けようとした。
アウシュビッツは新興ユダヤ民族意識とその国家イスラエルの恐るべき発生の地であった。……600万のユダヤ人の灰の中から『ユダヤ社会』という不死鳥がとびたっていったのである。何という『よみがえり』であろう」(ドイッチャー『非ユダヤ人的ユダヤ人』)
 戦前のユダヤ社会で模索されていたユダヤ人問題解決の三つの方法」、つまり同化社会主義シオニズムのうち、600万人の虐殺を経て生き残ったのは、ドイッチャーが敗北感とともに回顧しているように、シオニズム、つまりパレスチナユダヤ人の国家を作ることだけだったのである。同化という方法は、不信感をもって迎えられた。ヒトラーが同化ユダヤ人も虐殺してしまったからである。さらに社会主義による解決法も説得力を失っていた。ファシズムの意図を見抜けず、対処する方法も立てられなかったからである。そして狂暴なナチスの荒れ狂った後の瓦礫の中に悄然と立ちすくむユダヤ難民を、ビザもパスポートもなしで、国家ぐるみの保障で受け入れる国家が必要だというシオニストの説明は、説得力をもって迎えられたのである。
 このような状況下でシオニストに変身した私の両親は、お腹の中の三つ子を持参金として、イスラエルに嫁いできた。1949年のはじめのことである。当時のイスラエルは、国連分割決議によってユダヤ国家と決められた地域ばかりでなく、パレスチナ国家に決められた地域からも武力で住民を排除し終わり、そのために生じたパレスチナ難民の受け入れを拒絶し、残された家屋を世界中のユダヤ移民で埋めようと働きかけ、同時に内に向かっては、産めよ殖やせよというキャンペーンを繰り広げていた。このような時代のイスラエルで初めての三つ子の誕生は、センセーショナルな事件となり、私たちはベングリオン首相の祝電を受け、祝い金まで贈られたのである。
 私たちは歴史の申し子として誕生した。もしヒトラーがいなければ、私はポーランド人として誕生していただろう。両親がサマルカンドに留まっていたら、私はソ連人として生まれ、もし三つ子でなければフランス人として生まれたかもしれない。
 […]
 私はイスラエルと一歳違いの姉妹だった。私は最初この姉の存在に当惑し、そのあと彼女に親しみを覚え、そして憎むようになり、今では彼女が不正な存在であると考えている。
夏 雨が降る
冬 雪が降る
そして 呪われた長い道を
私は ひとりさまよう
私があれほど愛したすべては
死に絶え
呪われた力に殺され
そして あれほどの苦しみのあと
あれほどの恐怖のあと
結局 私はポーランドを去らねばならない
(『ゲットーの子守歌』より 松井真知子訳)

 この本は、著者のさまざまな感動と衝撃にみちたエピソードの数々によるイスラエルからの離脱の話と同時に、いわばアンチ・セミティズム(反ユダヤ主義)と同じコインの裏表にあるシオニズムの非正当性に光をあてる作業が語られています。その作業にみられる彼女のねばり強さと徹底性は、まさに驚嘆に値します。わたしたちはその著者の追究の展開から、瞠目すべき多くのことを知るでしょう。

(2021年7月2日)