クイア・プラクティス

ノン・ヘテロの身体障害者。雑文書き。観て読んで考えて書く。それが反応。

本の花束(7)「カミーユ・クローデル」(レーヌ・マリー・ハリス、エレーヌ・ヒネ、1989、みすず書房)

 フランスの女性彫刻家カミーユ・クローデル(1864~1943)は、ロダンの弟子であり愛人であり、また詩人ポール・クローデルの姉でした。彼女はたぐいまれな才能と美貌に恵まれ、ロダンポール・クローデルという二人の芸術家に深く霊感を与えながら、自らは精神に変調をきたして創作活動を挫折しました。そして30年間もの年月を精神病院で過ごし(カミーユ48歳のとき強制的に閉じ込められた)、孤独のうちに一生を終えたのでした。この事実の残酷さは、あまたの議論を呼び起こしました。入院がはたして適切な処置であったか否かが問われ、また、彼女を病院の壁の彼方に遠ざけ、世のなかから忘却させたのは陰謀であるという主張もなされました。運命に呪われた芸術家といったイメージと、30年間死んだも同然の生活を送った彼女の、病気に関する医学的情報の少ないことも、さまざまな憶測を生ませ、彼女の真の姿を曖昧にし、議論をますますエスカレートさせる原因ともなりました。

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 クレペリンは1899年の論文でパラノイアという疾患を初めて定義しました。彼は、内的ないくつかの原因にもとづき、妄想が次第にゆるぎないシステムを構築・発展していくにもかかわらず、思考、意思、行動などのまとまりと精神の明晰性は完全なままで残されているケースに限って「パラノイア」と呼ぶことにしました。パラノイアの存在そのものは、フランスでは1852年にラゼーグの発表した『被害妄想の研究』によって、つとに知られていました。

 クレペリンはこのパラノイアを、基礎とその上の構築物の二つの部分に分けて考えたのです。彼は記憶の錯覚(イリュージョン)が出発点で重要な役割を果たし、妄想はそれに続いて現れるとしました。クレペリンは、患者が周囲の人間のしぐさや言葉、あるいは日常生活のなかで知覚する形象や象徴を、どのように極介していくか、を記述しました。

 フランスではセリューとカプグラが《解釈》という視点から、症状をすばらしい文章で記述し、“解釈妄想”として、病気の特徴を説明しました。
 彼らによると、解釈妄想は組織化された妄想が主体となった慢性の精神病で
1 妄想が多様で、体系化されていること
2 幻覚やそれに近い現象の見られること
3 明晰で他の精神能力が保持されていること
4 解釈がどこまでも進行し、拡大する傾向のあること

などの特徴があるとしています。

 カミーユ・クローデルパラノイアがいかに形成されたかを理解し、その核心に迫る作業を、次のような順序で進めることにします。

1)まずカミーユの生活史のなかで、精神的外傷となったとみられる事件
2)彼女の性格、パーソナリティー
3)妄想の出現と、それに関する病院に残された資料

1)事件、精神的外傷、葛藤
 そもそも彼女は、生まれたときから母親にとってのぞましい子ではありませんでした。変わった始まりではありますが、当時はよくあることでした。彼女の生まれる16か月前、両親は幼い息子シャルル・アンリを失って悲しんでいました。母親のクローデル夫人にとって生まれてくる子カミーユは、この死んだ息子の代わりの男の子であってほしかったのです。

 そして、それまで表に現れなかった夫婦の不和がそのころから急に目立つようになりました。カミーユは、こうしたケースでしばしば見られるように、夫婦のあいだで引っ張り合いになる代わりに、たがいの争いの道具に使われます。彼女が父親っ子になり、父親の自慢の種になればなるほど、母親からは疎まれ、邪険な扱いを受けがちでありました。そこにメロドラマによくあるように、妹ルイーズが生まれました。そして母親のお気に入りになります。

 その結果、二人の姉妹は感情的にはげしいライバル意識を抱き合うようになりました。子どもたちは親の争いに巻き込まれ、華々しく悪口雑言を投げつけ合いました。カミーユと弟は、この暴力的な闘争の雰囲気を逃れ、独立を求めてたがいに接近するようになりました。しかし彼らの関係も、彼らが観察してきたものと同じ暴力で染まることになります。あらゆる環境でみられる現象ですが、観察されたものは観察してきたものなかに徐々に浸透していきました。

 カミーユはすでにポールに支配力を働かせていましたが、彼女はポールの愛を独占し、彼を自分の支配下に置こうともくろみました。さらに、母方の祖父であるアタナイーズ・セルボーが死んだとき彼女は17歳でしたが、彼女はこの祖父になついていたのでこの死のショックが大きく、悲しみの度合いはまさに《喪の反応》でありました。

 以前から、彼女は(自分の意のままになる)土や粘土をこねるのが好きでしたが、そのころから彫刻を始めました。それは母親の拒否反応に出会いました。二人のあいだの新しい行き違いの種です。他方で、彼女は父親から(金銭的に)密かに励ましを受けていました。この父は母親が反対したり禁じたりすることをやるように、娘をけしかけているのでした。これが、因習に逆らう傾向をカミーユに植えつけたのです。

 同様に、ロダンの弟子であると同時に愛人であるという二重の関係を、カミーユが、どうして傷つくことなしに通り抜けられたでしょう。真偽のわからないことがらはいくらもあります。ロダンが彼女のアイディアを盗み、彼女の仕事を自分の作品として横取りしてしまったという話は、どこまでが事実か曖昧ですが、ロダンが21歳の乙女の肉体と青春を奪ったことは否定しがたい事実です。

 また、いま一つ明確さが欠けていますが、1893年の流産、1896年あるいは1897年に、彼女がロダンの二人のモデルか下職人から受けたとされる迫害が続きます。自身の才能や自主性を認めてもらうことができず、世間的にロダンの弟子としか認めてもらえない立場にありました。

 そして1898年彼女が34歳のとき、13年にわたった波乱に富んだロダンとの情熱的な愛の破局となりました。女性としての生きかたの失敗を認めて、みずからの女性らしさ(フェミニテ)を放棄しますが、それは芸術創造の分野では自殺にひとしい決意です。当時の人間の目から見れば、この破局は彼女の職業生命を断つことをも意味していました。そして事実、そのとおりになったのです。しかし、それは彼女の精神病の病状がそうさせたのです。

 われわれは人生の刻一刻とその結果を別の観点から観察しなければなりません。つまり一人の人間の過去の行動のすべての《なぜ》を、未来に影響を及ぼしうるものとして理解しなければなりません。カミーユ・クローデルの生涯には精神の外傷をもたらしたに違いない(あるいはもたらしえた)有害な情況、事件、環境との相互作用といったものが、探せばいくらでもあるのは事実です。家族をめぐる環境もあれば、女性としての生活、彫刻家としての創造力を開花させることのなかにもありました。その全体が、どこからでも糸をたぐればたどりつけそうな興味深々たる織物を作っています。

 しかしカミーユの入院の説明をすべてそこに求めるのは無理です。せいぜい、彼女のパーソナリティーや人生を屈折させる要素となっただけです。どのようにこじつけようと、それを彼女のパラノイアあるいは彼女の行動異常の、直接の原因とは認めがたいのです。ことはそう単純ではありません。どれほど多くの人間が、彼女と似たような情況、あるいはこれよりひどい情況を生きたでしょう。にもかかわらず彼らはパラノイアにならずにすんだのです。

2)性格特性
 カミーユの性格特徴を描いた証言は、こまかなところまで一致しています。彼女はきびきび決断し、批判精神の強い子どもでした。彼女はすぐ反抗的になり、家族のなかで自分の意見を押し通しました。思春期の時期は、誇りが高く短気で、疑り深くかつ頑固と評されています。彼女は自分に権利があると思うなら、ほんのわずかなことも譲ろうとしませんでした。

 ロダンとの関係を通じて、彼女は愛情面でも独占的なところを示し、要求が強く、しばしば荒れ狂うこともありました。ベルナール・シャンピニュエルは、ロダンについての著作のなかで書いています。《カミーユの恋の狂乱ぶりはしばしば悲劇的な趣を呈した(1890年においてすでにそうであった)。彼女は他と分かち合うことなど絶対に認めなかった彼女の苛立ちは激しくなりついには病的なそれに近くなる。彼女は自殺を口走るようになる

 ロダンとの破局の後、人間不信になり、疑惑を抱き、自分を脅かすと感じられるものすべてにたいする、耳障りなほどの当てこすりが目だってきます。

 これらの性格的な特徴をみて、彼女にパラノイアの素質があったといいきってよいのでしょうか。それはちょっといいすぎでしょう。後に古典的な考えかたになる、彼女の自尊心と疑い深さと精神的な柔軟性の不足とを結びつけて肯定する者もいますが、それは言いすぎでしょう。それより、パラノイア傾向をもった性格というのが妥当です。それがカミーユのその後の生活や出会いの影響で急激に極端になっていくのです。この流れのなかで不可避的に、パーソナリティーの構造が固まり、もとに戻らなくなりました。そして精神病としてのパラノイアが、妄想をくすぶらせ始めます。妄想は、さまざまな場面でちらちらと見え隠れするようになります。そして、それが次第に彼女の精神全体を占領するようになっていきました。

 カミーユ・クローデルは美しい人でした。端正な顔形と繊細な表情が印象的であり、大きな青い目には奥深いところからさしてくるような光があり、みなぎる力を感じさせました。

 しかし、それは彼女の非常に若いころ、つまり彼女がロダンのアトリエで働いた時期だけの真実でした。それは長くは続きませんでした。1897年の日付の入った一枚の写真がペルセウス像を彫刻中のカミーユを写しています。

 彼女はまだ33歳になっていませんでしたが、すでに太っており、顔は二重あごになり、むくんだ感じでした。時とともに、この傾向はさらに進みました。彼女はずんぐりしてきて、表情も鈍重になります。

 ロダンとの決別後に撮られた、彫刻用の盤と金槌を手にした写真では、彼女は《男おんな》ふうの風貌を見せています。今世紀の初めごろの写真には、生活の苦しさからも来ているのでしょうか、もはやかつての面影は目にしか残っていません。周囲の人間には、わずかのあいだに十歳も年をとったようにみえました。

 この外見の変化から、あまり多くの憶測をすべきではありません。ロダンのアトリエでは下職人のあいだでごく《当り前》のようにぶどう酒が乱用されていました。カミーユもかなり飲むほうでありました。彼女の顔のむくみは、むしろ飲み過ぎを思わせます。しかし、栄養や遺伝的体質などの要素も考えられます。後に入院したとき、彼女は自分から食事を断ったために痩せたという証言があります。そうあって当然でしょう。しかしカルテには、特にそれに関した記載はありません。規則的に、身体面では《健康は良好》、あるいは《満足すべき状態》とのみ書かれています。

3)精神病とパラノイア
 1913年3月7日、医師ミショーは、この章の後半に写しを載せたような診断書を書きました。カミーユは、ロダン一味》に迫害されると怯え、部屋を内側から密閉したため息苦しくなるほどでありました。毒を恐れ食事もとらず、必死に心身の安全を守ろうとしていました。それは見るにしのびないほどひどい生活でした。時に48歳。それから彼女は精神病院で一生生活を続けるようになります。一般の例にもれず、入院の措置が取られたのは、病気の最初の症状が現れてからかなり経ってであり、見る人を茫然とさせるほどひどい状態に陥ってからです。

 1989年から1904年にかけては、伝記的な資料も欠けており、カミーユの考えの変化をたどること、つまり、彼女の理性が妄想のほうにどのようにずれこんでいったかを示す初期の兆候を探しだすことはできません。

 1905年の11月に精神異常があったのは明白です。彼女は、ふたりの男がよろい戸を壊してなかに入ってこようとしましたが、その二ふたりが、ロダンの命令を受けて彼女を殺しにきたイタリア人のモデルだとわかったという話を、これは秘密だと断ったうえでアスランに打ち明けています。彼女は明白でした。彼女はロダンにとって邪魔だったのです。だから彼が彼女を消そうとしたのです。

 それから1か月後の12月、彼女の回顧展の二日目、ユジェーヌ・プロの家で、カミーユは突然に怒り出して、いあわせた人々の眉をひそめさせています。こうして彼女はそれまで親しくしてくれていた友人や親類との関係を断ち切ってしまいます。近親者たちも、彼女の常軌を逸した行動と粗暴で無作法な振る舞いにはついていけなくなります。それらは理解しがたいというより、受け入れがたいものでありました。

 それに続く1906年初の数か月、彼女は徹底して自分の彫刻作品を壊してしまいます。精神異常のなせるわざと見てよいでしょう。彼女は、ロダンの影響を示すもの、ロダンの存在を感じさせるもの、ロダンといっしょに過ごした時代を思い出させるものすべてに自分をぶつけ、それを破壊しつくそうとしたのです。そう解釈しても大胆過ぎる推理とはいえません。

 弟ポール宛に書かれた手紙には、ロダンが彼女の作品を盗んだという訴えがくどくどくどくど繰り返されています。被害観念? それにはまちがいありません。自分を守るために相手を攻撃する、いわゆる迫害された迫害者の例です。他の例では、迫害者に変わった暴力は目を見張るほど激しいものですが、彼女の場合さほどではないのは、女であるという条件のせいでしょうか。

 妄想のテーマは、ロダンに集中しているのがはっきり見てとれます。すべての妄想がそうであるように、現実にぴったり合う部分はひじょうに少ないのです。カミーユには天才がありました。彼女がロダンの作品や人間そのものに惹かれたことは容易に想像できます。彼女がロダンのために働いたことも確かです。彼女は彼から学ぶことも多かったでしょう。しかしそこから、ロダンに盗作された、不当に下職人扱いをされた、さらには、彼の好敵手になったから(彼の地位を脅かすに至ったから)迫害された、彼女が邪魔になってきたから、ロダンは殺し屋を雇って彼女を殺し、厄介払いしようとしたと主張するにいたっては、常識的には受け入れられません。

 カミーユは現実の比喩的解釈から出発し、純粋に思考の産物にすぎない妄想にたどり着いたのです。しかし、カミーユにとってはそれは比喩ではなく、ありありとした現実であり、確信であり、いかなる反論にも揺らぐことがない、疑う余地のない真実だったのです。

 ロダンの行動が、彼女の解釈とは正反対であることを示す事実がいくらかあったとしても、そんなものは嵐のなかのわらくずのように、妄想の勢いに吹き飛ばされてしまったでしょう。

 読者のなかには、わたしが《カミーユのもっとも熱心な支持者たちも、妄想だと見破れたはず》と書くのを予想した人がいるかもしれません。しかしそう書かなかったのは、もちろん意識してのことです。妄想患者の確信の力は、強い感情のエネルギーが込められ、また本人も見たところ非常に論理的なので、しばしばまわりのものは妄想の航跡のなかに《魅入られた》とでもいいましょうか、引き込まれてしまうのです。感情の盲目的な大波を前にして、理性の力がいかに微々たるものかを見せつけられるのは心の痛むことです。

永遠の昔から続く理性との闘いで、感情が負けたことは一度もなかった》(G・ル・ボン)。それどころか妄想患者に説き伏せられ、妄想に積極的に加わり、それを強化していくものさえ出てくるのです(フォリー・ア・ドゥ:二人狂い)。

 カミーユ・クローデルの精神療養所生活は、1913年3月10日ヴィル=エヴラール病院で始められました。1914年9月5日から7日のあいだ、彼女はモンドヴィルグ療養所に移され、1943年10月19日に死亡するまでずっとそのままでした。手続き的にみると《形式上の自発入院》です。この形式はいまも昔もありますが、まずは妥当でしょう。《強制入院》より厳しくはなく、取り消すこともより簡単にできる、ずっと柔軟な措置です。しかし、入院を必要とする症状は、どちらの場合にも変わりはありません。この自発入院には、精神状態の詳しい記載のある、自他に傷害を加えるおそれがあることを示す診断書と、家族の同意が必要です。家族がいなければ責任ある近親者の一人が入院に同意しなければなりません。それ以後も、入院を継続させようとするなら、非常に厳しい規制にしたがって行われなければなりません。正式の診断書が求められ、検事の検閲も行われます。

 カミーユは合法的手続きのもとで入院させられました。ミショー医師の診断書もあり、入院を要請する書類に、当時、すでに未亡人になっていた彼女の母のサインもあります。この母が多少とも無意識的に娘に対して攻撃的であり、カミーユが芸術の世界で仕事をすることに反対し、彼女の私生活をけっして認めようとしなかったのは事実ですが、実の母親が娘を入院させようとやっきになり、悪意をもって進んで書類にサインしたという主張に誰が納得できるのでしょう。医学に縁のない一般人だって、入院直後、療養所の医長――現在は精神科の医長――が患者を診察し、入院の措置が必要であったことを確認する診断書を書かねばならぬことくらい知らないはずはありません。

 当然のことですが、医師たちの名誉のために敢えて断っておきましょう。カミーユが戦争の事情でモンドヴェルグに移されたとき、療養所の医師は、ただ新しい滞在者を受け入れればよかったわけではありません。彼は入院の措置が正しかったかどうか調べ直す義務を負わされていたのです。1914年9月22日付の診断書はそのためのものです。そのなかでプロゲール医師はカミーユが《まちがった解釈と空想にもとづいた、組織化された被害妄想をもっている》と証言しています。カミーユロダンと別れてから、すでに16年経っていました。

 療養所のなかに保護されていたにもかかわらず、彼女があいかわらず恐れていたのは、《ロダン一味》による毒殺でした。彼女は看護師が、彼らに便宜をはかっていると非難しはじめました。彼女は自分の食事は自分で作らせるように要求しました。その当時は、このような症状に有効な薬はまだ何ひとつ知られておらず、彼女が何らの投薬を受けていなかったことを忘れてはなりません。薬が投与されるいまの時代とは違い、たとえば彼女は自分の飲まされている薬が実は毒なのだと、主張を正当化する状況にはなかったのです。

 毒殺の恐れが常にあるという主張は、具体的な実行の手段が考えられていない限り、妄想的産物の証といってよいでしょう。彼女の生涯の不幸な一連の事件から説明可能だとして、カミーユのとった行動を説明しようとする試みにも同意できません。それらの事件は確かにある役割を果たしています。

 しかしそれが妄想の原因だと見るのは間違いです。妄想の原因となることと、妄想の形を決めたり妄想の材料に使われることとは次元の違う問題で、混同されるべきではありません。カミーユの作品が盗まれたという場合、それは比喩的な表現では言いえましょうが、毒殺というテーマは、そのような比喩的な表現とはまったく関係がありません。そこには確信があり、それが人間の情緒的な全エネルギーを吸い上げて、純粋に精神的産物にすぎない観念のなかに注ぎ込むのです。

 このような場合に《強迫》という言葉が使われるのを耳にします。《彼女はいつもその問題に戻ってくる……その話しかしない……彼女は、どんな行動をするときも、その考えが頭から離れない……彼女の強迫観念ね》。

 しかし、ここで用いられている強迫観念という言葉は医学用語のそれではありません。《強迫観念》は、精神医学的には妄想とはまったく違った症状を示す言葉です。強迫観念は、本人がばかばかしいと思っているのに、どうしても追い払えない考えのことです。患者は自分の考えがそちらに向いてしまうことに苛立っています。それが異常な現象だと自覚しています。

 もっとも一般的なのは不潔、とくに細菌にたいする恐怖です。患者は手を洗います。その手を拭いたタオルを洗います。手を汚さないように手袋をして洗います。そして、それをまた洗うといった具合です。強迫神経症の一番思いものでも、妄想とは無関係です。生活するうえでは、強迫観念のほうがかえって苦痛な場合もありますが。

 カミーユの妄想は1904年ごろ目立つようになりました。妄想を抱きはじめたのはそれ以前でしょう。いくつかの証言によって、その時期は1899年から1900年ごろに遡ることができます。しかし、それはたいして問題ではありません。彼女が入院させられたのは妄想をもっていたからではありませんでした。カミーユの奇妙な生活ぶりが目だったため入院措置がとられたのです。

 そうした行動が、家族を含めた周囲の者に、彼女が妄想性精神疾患にかかっていることに気づかせたのです。おかしなことを言うだけでは、まわりの人間を警戒させませんが、反社会的な常識外れの行動をするのを見れば、精神病の存在に気づくのです。

 本書のサブタイトルに挙げた「天才は鏡のごとく 一方の側は光を受けるが もう一方はざらざらと錆びついている」というフレーズは、ポール・クローデルが書いたものです。天才とは、内奥に狂気を孕みながら創作する存在だとすれば、その天才の光と影をこれほど言い当てた言葉はないでしょう。しかも、同じ気質をもちながら、自分は信仰によって破滅を免れむしろ「」に生きたのに対し、狂気にからめ取られて「ざらざらと錆」ついた側を生きてしまった姉カミーユは、ポールにとって悲劇的分身でもありました。

 カミーユの作品世界の際立った特色は、そのどれもが彼女自身の内面のドラマを表彰している点にあるでしょう。最初の傑作『シャクンタラー(1888)』では肉体の結合を通して到達される魂の融合と愛の神秘を、『ワルツ(1893)』では音楽のもたらす陶酔に身をゆだね、忘我の境地で旋回する男女の愛の恍惚を表現したカミーユですが、『分別盛り(1898)』では一転し、取りすがり哀願する若い女を置き去りにして、醜い老女のほうへと引きずられてゆく壮年期の男という男女三人の群像のうちに、ロダンをめぐる三角関係とその破綻のドラマをアレゴリックに造形化しています。

 ロダンと決別してからのカミーユは、もう決して新たな愛の群像を構想することはありませんでした。「運命」を擬人化した『運命の女神(1900)』の、身体を弓形にそらし後方へ傾斜した非対称なポーズ、腰からまとった流れるようなドレープ、これはまさに『ワルツ』から男性パートナーが欠けた構図ですし、右手を傷口に、左手はだらりと垂れて、いまにも崩れそうな瀕死の姿をさらす女性は、『シャクンタラー』から愛する伴侶を取り去った像以外の何ものでもありません。

 あるときは目くるめく愛の昂揚を歌い、あるときは成就せぬ愛の悲哀と別離の苦しさを嘆き、またあるときは孤独と傷心を訴える作品のなかの女たち、それはカミーユ自身の分身なのです。「いつも何か欠けているものがあり、それが私を苦しめるのです」と、彼女はロダンに根源的喪失感について語ったことがあります。誇り高く自立心に富んでいましたが、反面とても繊細で人一倍愛を必要としたカミーユ――彼女にとって、愛を失った欠落感はいかばかりであったでしょうか。そうしてついには狂気の暗い淵へと飲み込まれていったのです。

 女性が芸術家になるのがまだきわめて困難だった時代に、カミーユは芸術を志しました。19世紀には大芸術(絵画・彫刻)と小芸術(装飾・工芸)の区別が歴然とあり、前者は芸術家、後者は職人の仕事とされていました。そして大芸術には天才が必要ですが、女性には天才はないと考えられていたのです。女性に許されたのは、良家の子女のお稽古ごととしての絵やピアノだけでした。そんな慣習の色濃く残る時代に、彼女は自立した芸術家を目指し、なおかつ愛においても対等を求めて激しく闘いました。

 カミーユの作品がわたしたちを感動させるのは、それまでもっぱら男性によって見られ描かれる対象だった女性を、女性の目で見て、その真実を誰よりも鮮烈に表現したからでしょう。作品が生命感に満ち、精神的息吹に満たされているのは、自らの存在の内奥から霊感を汲み上げているからです。鶴女房が自分の羽を一本ずつ抜いて美しい織物を織ったように、カミーユは自分の命を削るように彫像をつくり、そこにその時々の感情と思索を、喜びと絶望を、つまり魂を刻み込んだのです。皮肉なことに、彼女の歓喜も苦悩も、すべてはロダンその人から由来してあったのですが――。

 カミーユは長いこと忘却の底に沈んでいました。フランスで再評価の動きが起こったのは1980年代のこと。回顧展が開催され、伝記や研究書があいついで出版され、劇や映画が上演されました。日本にもブームは波及し、1987年に最初の展覧会が開催されました。

(2021年7月16日)