クイア・プラクティス

ノン・ヘテロの身体障害者。雑文書き。観て読んで考えて書く。それが反応。

本の花束(8)朴壽南『もうひとつのヒロシマ 朝鮮人韓国人被爆者の証言』(1982年、舎廊房出版部)

詳細は省きますが、「平和の少女像」などを展示した国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」内の企画展『表現の不自由展・その後』が、開催から3日間で中止に追い込まれました。いまから3年前の出来事です。「ガソリン携行缶を持ってお邪魔する」と書かれた脅迫ファックスなどが届き(2019年京都アニメーションガソリン放火殺人事件を彷彿させる)、安全面に気を配ったといいます。慰安婦問題を扱う作品のほか、憲法9条、昭和天皇や戦争、米軍基地、原発、人種差別などのテーマ性を含む作品が並んでいました。
 日本人はえてして「政治的中立性」を保つ人たちです。良く言えば「不都合には決して触れない」人たちのことで、悪く言えば「議論できない」人たちのことです。つまり、反対意見を持つ人たちを攻撃してしまうのです。たとえるならば、妻や子どもが反論すると、言葉ではなくつい手が出てしまう、頭の悪い暴力夫のように。能力もないのに、夫の威厳や面子を保ちたい。そうなると、歪みは必ず弱い立場に悪影響を及ぼします。人間関係でも国際関係でも同じです。
 なぜかというと、わたしは本書で知ったのですが、軍部広島がヒバクシャ・ヒロシマと化したのは周知のことで、朝鮮・韓国人被爆者が相当数いたことも事実です。日本は被害を受けたことは大声で言いますが、同時に加害者であったことは一切沈黙します。謝罪したくないし、責任を負いたくないからです。

 個人的経験からいうと、わたしにはリハビリ担当の人たちがいます。身体を動かすのと同時に、積極的に話をして言語のリハビリもしようとわたしは思いました。
 その担当者は同世代の人で、最初はわたしも「話が合うかも」と思いました。ところが朝鮮・韓国人のことになると、とたんに「あいつら識字率ゼロパーセントだから!」と軽蔑を込めて担当者は言いました。驚いたわたしは「どうしてそんなことを言うのか? 親から教わったのか?」と責めました。担当者は仕事を忘れて、わたしをやりこめようとしました。言葉がまったく出てこないわたしはひどく憤慨し、すぐに担当者を辞めさせました。わたしがもう少し冷静だったら、朝鮮・韓国人を差別する人の気持ちをちょっとでも理解することができたのに、と後悔しました。
 しかし、差別発言する人をわたしが理解する必要はない、差別発言は無理解のうちに発するものだから、と思い直しました。なぜなら「差別発言する者は己の劣等感が表れている」からです。

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 悲痛極まりない、人間を根底から打ち砕くむごい本当の悲劇は、多くの場合、同時に悲劇の当事者がそれについて語ること自体すらも不可能にしてしまう苛酷さをともなっています。まさに、生き残った広島・長崎の朝鮮・韓国人被爆者の場合がそうでした。
 日本原水爆被害者団体協議会被爆者13000人を対象に行った膨大な調査の記録、『ヒロシマナガサキ 死と生の証言――原爆被害者調査』(新日本出版社、1994年刊)は、原爆が被害者に対して「人間として死ぬことも、人間らしく生きることも許さない」、反人間的被害を身体にも心にも今も与え続けていることを訴えています。しかし、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」(1970年4月除幕)が、広島の平和公園の外に押しやられている事実に象徴的に示されているように、朝鮮・韓国人被爆者は、被爆者差別とともに民族差別があり、また、民族分断の悲劇もからまって、日本人被爆者よりもさらに、人間として死ぬことも、人間らしく生きることも許されない生の苦しみのなかに閉じ込められてきました。しかも、死者4万人、負傷者3万人といわれる広島・長崎の朝鮮人被爆者のことは、その事実も知らされず、日本の反核平和運動のなかでも、生存者や遺族の存在は長くとりあげられることがなかったのです。
 そして、朝鮮・韓国人被爆者の幾重にも折り重なった悲痛な悲劇と苦悩は、「同胞たちはわが子にさえ『ピカにおうたこと』を話すこともなく、訴えることばも、相手をも持たずに、……沈黙の闇に生き埋めにされていた」と、本書のなかで著者が記しているような情況をつくり出していたのです。
 1965年、広島、大阪、筑豊対馬、新潟などへと、在日同胞の現実の姿を求めて歩いた朴壽南(パクスナム)さんは、広島の被爆者同胞と出会い、「沈黙の闇に生き埋めにされている」その存在を知り、そして、「非在としてあるもう一つのヒロシマ復権」のために、被爆者同胞からの聞き取りと、強制連行による徴用や学徒動員、そして徴兵など軍部広島の苦役に繋がれた朝鮮人の歴史を追究する作業に全力を傾けます。失業対策現場やいまはなき<原爆スラム>で、朝鮮・韓国人被爆者と寝食を共にして。
 しかし、被爆したこと自体を他人に知られたくないために「原爆手帖」も取ることもできない人たちが、簡単に自分の体験を語ったりはしません。朴さんはこう記しています。「生活と生命の崩壊の過程で、人びとの魂もまた深く傷ついている。現実に悲惨の極を生きている同胞たちは、寡黙である……。そして、外の人間が決して踏み込むことのできない奈落の底に、声もなく、うずくまっているのだろう……。それらの人びとの沈黙を打つ資格がわたしにもあるのか……。生あるものの絆から絶ち切られている死者のように、打ち棄てられている同胞たち……。あるいは、血しぶきをあげる狂気の夫や、妻たちの修羅葛藤の現実に、そして、その子供たちの引き裂かれた絶望的な魂に――。これらの人びとが持っている唯一の自衛の手段は、沈黙だけではないだろうか」と。
 本書は、1972年に刊行された朝鮮・韓国人被爆者証言集『朝鮮・ヒロシマ・半日本人――わたしの旅の記録』(三省堂刊)の増補改訂版ですが、作業開始から十年後に非常な困難をのりこえてこの証言集を完成させることができたのは、なにより朴さんが、悲劇的沈黙への深い感受性と想像力をもった女性だからでしょう。本書をはじめとする朴さんの作業のすべては、<声>を存在させる闘いでした。他者の沈黙をみつめ抜くことができない者に、<声>を存在させることはできません。朴さんの本から視えてくるのは、朝鮮・韓国人被爆者の存在だけではなく、同時に、悲劇を生み出した日本というものの姿です。そして、その姿をみつめ抜く以外に、いま、日本の未来への道はないのです。本書はけっして忘れてはならない本だと、わたしは思います。

 

(2021年7月27日)