クイア・プラクティス

ノン・ヘテロの身体障害者。雑文書き。観て読んで考えて書く。それが反応。

荒井裕樹『車椅子の横に立つ人 障害から見つめる「生きにくさ」』を読む

荒井裕樹『車椅子の横に立つ人 障害から見つめる「生きにくさ」(2020、青土社)』読了。荒井さんの専門は「障害者文化論」。「身体(あるいは重度)障害者と文学」や「精神障害者とアート」などなどのエッセイをいくつか読んだ。映画『さようならCP』の所感があり、1970年代の「障害者(差別反対)運動」と「ウーマンズ・リブ(女性差別反対運動)」の桎梏、葛藤を「思想史」として書いていているが、わたくしとしては少々物足りなかった。また「発達障害」「アスペルガー障害」などの“新しい障害”についても書いているが、「性同一性障害」については一切触れられていないこともさらに不満だった。荒井さんは(おそらく)シスヘテロ男性で健常者だろうし、職業柄「障害」については敏感なのだが、彼には語る資格がないという謙遜もあるのだろう。「性同一性障害」についてはわたくしもよくわからないが、“治療”後に「トランスジェンダー」という名称(自己紹介?)で活動している人々もいる。

わたくしは自分のことを「レズビアントランスジェンダーの交差点」として名乗っているが、これが一番しっくりくる、しかし新たな名前が発見されてもそれが自分のセクシュアリティを忠実にかつ正確に表現しているかどうかはわからない。わからないながらも書いてみる、そうすれば少しはわかった気になるだろうという希望的(楽観的?)観測のためにわたくしは書く。

中村美亜『心に性別はあるのか? 性同一性障害のよりよい理解とケアのために(2005、紀伊国屋書店)』は確かに読んだ。しかし内容はすっかり忘れた(中村さんごめんなさい!)。読了中は違和感はなかったが、おそらく「心に性別はない」。性的マイノリティからLGBTQになり、今ではSOGI(Sexual Orientation & Gender Identity:性的指向性自認)となった。SOGIチェックでは「からだの性 男←→女」とあり、わたくしは便宜上子宮と卵巣があり若い頃から超不順ではあるが月経もたまにくる。妊娠・出産経験はないし、ペニスを挿入したこともない(ゲイ男性のはあるが)。50歳になると子宮&卵巣の検査がちょくちょくあり、ゆくゆくは両方とも摘出する予定である。

となると、わたくしが「女である」とする身体的根拠は一切なくなる。婦人科疾患のシスヘテロ女性はまるで子宮・卵巣が性的アイデンティティのように「できるだけ温存させてほしい!」と泣きながら医師に懇願するようだが、わたくしとしては「トラブルのある臓器なら切除しよう、盲腸と同じだ」である。

さらに「心の性 男←→女」とある。そこでわたくしは悩む。「心の性??? なもんねーよ!」である。シスヘテロ女性にあえて忖度して、「からだの性」が女性になると「心の性」も女性という洗脳的(!)なことになる。みんな! 騙されるな!

なるほど、シスヘテロ障害者たちのなかには「優生保護法(強制避妊手術・優生学的断種手術)」で犠牲となった仲間たちがいるから「わたしのからだのなかにまで国家がコントロールしてはならない!」として今でも反対運動をしている人たちもいる。

話を元に戻そう。日本語で「障害者」は英語に直すと「impairment:身体の欠損・欠陥」「disability:社会的身体的障害、不自由なこと」の二つである。では「性同一障害者:gender identity disorder(GID)」は果たしてどうなのか? 身体は女なのに心は男である、だから最初は精神科クリニックを受診して、その後「心」と「身体」を統一するために“外科的治療”や“薬物治療”をする。そこまでしないと落ち着かない患者もいるそうだ。月経になると吐きそうになる患者もいたし、悩んで苦しんで自殺した患者もいたし、二次障害でうつ病にかかる患者もいた。大学は出たけれど、トランスジェンダーを自覚自称している人たちは会社(これもシスヘテロ人間には抵抗はないが実はかっちりとした、しかも明文化されてない男女の“制服”があってGIDにはひどく抵抗がある)に就職したくなくてバイトに出たり、学生の頃はマニッシュな服装をしていたが、メンタルヘルスを患っており、痩せこけて“女装”してきたのでわたくしは驚いた。自分のセクシュアリティが自分で混乱し、「これは…もしかして男性相手のセックスワークをしてるのだろうか?」と訝しんでしまう人もいる。これもまた「社会が作った障害という壁」である。優生保護法反対運動をしている人たちは、性同一障害者のこと(特に命名した医師たちのこと)をどう思っているのか。

「自分は男だ」とはわたくしは思わない。男物の服装をするのは単にサイズがないだけ(胸の厚みと肩幅が広い)。髪を伸ばさず化粧もしないのはただ面倒くさいだけである。ゆえに「自分は女だ」とも思わない。

最後に、『さようならCP』の所感で荒井さんが書かなかったことを書く。「一階六号室(青い芝の会)」では、「障害者の性」をオープンに話したこともあった。脳性麻痺者が笑って「少女を犯した」と自慢げに言うのである。このシーンが最も居心地が悪かったし、非常に腹が立った。脳性麻痺者の証言ははったりだったのかもしれない。ただ、社会的弱者はより弱い者をターゲットにすることは事実である。

荒井さんの著書は非常に参考になった。「障害者の性」はタブーであり、タブーだからこそ障害について研究する者はあえて鈍感にならなければないないということも、とてもとても勉強になった。

 

(2020年8月27日)