クイア・プラクティス

ノン・ヘテロの身体障害者。雑文書き。観て読んで考えて書く。それが反応。

【本の花束・番外編】ヘレン・ジェファーソン・レンスキー『オリンピックという名の虚構――政治・教育・ジェンダーの視点から(晃洋書房、2021)』

 最近、コロナ禍でありながら、日本政府が東京五輪を何としてでもやり遂げようとする動きがあって、みなさんは不審に思われないでしょうか。わたし? わたしはとっくに不審を感じていました。

 2013年、都知事がまだ石原慎太郎だったときのことです。東京オリンピック2020の招致が決まった時点ですでに、わたしはオリンピックには反対でした。東京オリンピックは二度目の招致でしたが、「東北大震災の復興のために」というお題目が怪しく響いたので、オリンピックについて独自に調べていました。といっても、これはネット検索すれば簡単にわかることです。

 1984年ロス五輪から、夏季オリンピックの入賞枠が6位までから8位までに拡大されました。開催するために必要な費用は、4本柱(「テレビ放映料」「スポンサー協賛金」「入場料収入」「記念グッズの売り上げ」)を立てて賄いました。かくして最終的にはこの大会は、およそ400億円の黒字で終了かつ成功しその全額がアメリカの青少年のスポーツ新興のために寄付されました。この大会の成功が、その後の五輪に影響を与える商業主義の発端となりました。いわゆる「商業五輪」です。

 1988年ソウル五輪では、長い派手なつけ爪のフローレンス・ジョイナーが颯爽と登場して陸上競技で3冠となりましたが、その10年後、ドーピングしていたジョイナーは心臓発作で亡くなりました。まだ38歳でした

 日本では一昨年くらいから、真夏の熱中症でお年寄りや子どもたちが体調不良となり、その最中に夏季五輪が開催するのはいかがなものかと、多くの人が疑問に思いました。マラソンだけ札幌で開催しようと決めましたが、2021年、テストとしてマラソンの開催や、各地で“聖火”ランナーが出没しました。地元の住民はどれもこれもドン引きします(相模原開催にいたっては「相模原連続殺傷事件」があったからという理由で)。

 新国立競技場の建て替えには問題含みでした。まず、エンブレム問題です。このロゴはベルギーの劇場とひじょうに酷似しており、ロゴをデザインした本人(佐野研二郎氏)よる指摘が入り、結果的に佐野氏の案はボツとなりました。

 整備主体ではザハ・ハディド氏によるデザインが採用されましたが、8万人収容で、完成予定は19年3月、総工費は1300億円程度とされていました。しかし、設計段階で工費が約3500億円まで膨らみ、政府は計画を縮小します。15年7月、工費2520億円とする計画を決定しましたが批判が収まらず安倍晋三首相が白紙撤回を表明しました。経緯を検証した文部科学省の第三者委員会は、難度の高いプロジェクトに求められる適切な組織体制を整備できなかったとして、下村博文文部科学相やJSCの河野一郎理事長(いずれも当時)に責任があると指摘する検証報告書案を公表しました。

 また実際の建設現場では、19年11月末に完成予定の新国立競技場を建設前に発掘調査した際、地中から少なくとも187体分の人骨が見つかっていたことが、都教育委員会への取材で分かりました。一帯は江戸時代に寺の墓地があり、当時埋葬されたものとみられます。都教委などによると、調査は都埋蔵文化財センターが13年年7月~15年8月、競技場と周辺約3万2千平方メートルを対象に実施。乳児から高齢者まで幅広い世代の男女と推定される人骨が見つかったのです。この場所に寺が移転してきた1732年以降に埋葬され、1919年に寺が別の場所に移転する際、取り残されたとみなされるといいます。現在は国立科学博物館で保管されています。

 にもかかわらず、建設は中止にもならず着々と進みます。このグダグダはなに? このごまかしはなに? なんなのいったい? 日本国民は、このあたりまで目をつぶりましたが、コロナ禍が襲ってきて「IOCは覇権的である」ことにはじめて気づいたのです。日本でコロナがいまだ蔓延してるのに、IOCはなぜオリンピックを開催する気でいるのだろうか? 「スポーツ・メガイベントより命のほうが大事なのに!

 1992年、この著者のヘレン・ジェファーソン・レンスキーはオーストラリアのオリンピック招致熱が高まるシドニーの中央ビジネス地区にいました。10年後、バンクーバー/ウィスラーが2010年冬季オリンピックの招致準備をしているとき、彼女はウィスラービレッジで招致委員会の展示を見ていました。模造の聖火が臭くて黒い煙をきれいな山の空気のなかに吐き出していましたこの展示は大会招致で宣伝されている環境基準を満たせていないのではないかという彼女の苦情に対し、担当者は呆れたという態度を向けるだけだった。

オリンピック産業は、表面と実質レトリックと現実のあいだに多くの矛盾を抱え、これらの事例はその一部を捉えたものだ。

1990年、私は夏季オリンピックにおける女性の地位に関するレポートを執筆する契約を結んだ。政治家、市のスタッフ、ビジネス関係者、および1996年のオリンピック招致を準備していた人々からなるトロント市オリンピックのタスクフォースのためである。その時代の多くの「スポーツフェミニスト」や、21世紀の多くの人と同様に、当時の私は、よりラディカルな批評家がいみじくも「女性を追加してかき混ぜる」アプローチと呼ぶ、よりリベラルな分析を行っていた。つまり、男性と女性のオリンピックプログラムの不均衡と、女性アスリートの少なさに焦点を当てていたのだ。私は、これらのイベントが開催都市や国に多くの悪影響を与えるにもかかわらず、スポーツを社会的実践として、あるいはオリンピックをスポーツ・メガイベントとしての観点から批評していなかった。
 トロントの1996年と2008年のオリンピック招致に反対した「サーカスではなくパンを(BNC)」連合のメンバーと私がつながったのも1990年代の初めである。手作りのチラシの上にまとめられたオリンピックの社会的影響についての分析や、1990年の反招致提案書、2001年の住民反招致提案書は、オリンピック・イデオロギーの力や、大会を主催することが恵まれない人々やコミュニティに及ぼす隠れた損害の現実に私の目を開かせることになった。その後、私はBNCや他のカナダとオーストラリアの反オリンピック監視団体の活動に参加し、その経験は私の分析と世界観の両方を変えることになった。

 ヘレン・ジェファーソン・レンスキーとは、トロント大学(カナダ)名誉教授です。1980年代からスポーツとジェンダー研究スポーツとセクシュアリティ研究のパイオニアとして活躍し、トロントが候補都市となった1996年オリンピック大会の分析を通じて、スポーツ・メガイベントの社会への負の影響について研究を始めます。オリンピックの水面下で起こる人権侵害や教育の問題について、フェミニストとして多角的で鋭い批判的研究を行っています。

 

本書は、実際のスポーツ競技と、オリンピックの招致・準備による影響、および地域的、世界的な反オリンピック運動を同じくらい取り扱っている。1980年代以降、開催都市や国に暮らす人々、特にオリンピックが来る前からすでに不安定な生活を強いられている人々が経験した政治、社会、経済、環境への悪影響の広がりが多くの研究によって記録されてきた。過去数十年間に、個々のアスリートによる抗議、アスリートの権利のための世界的なキャンペーン、反オリンピックグループの国際ネットワーク、反人種差別主義者の連合、環境および人権活動家、非政府組織(NGOなどを含むこれまでにないレベルの抵抗が見られた。国際オリンピック委員会IOC)とその統制下にあるスポーツ統治機関は、その指導者たちが人権擁護者や他の批評家との対話を拒否し続けていることで、しかるべくして抵抗運動のターゲットになっている。オリンピック産業の観点からは、「スポーツの特異性と自律性の基本原則を守る」ことが最優先事項である(ASOIF、2019)。言い換えれば、スポーツは自主規制を継続し、国内法および国際法の適用から免除され、このスポーツ・メガイベントに公的資金を投入する開催都市、州、国の政府を含む「政治」から隔離保護されている

 競技場で起こる出来事も同様に注目に値する。この本は、私のこれまでの業績(Lenskyi,2003,2013,2018)の多くと同様に、ジェンダーセクシュアリティエスニシティに基づくアスリートの権利と差別の問題を考察している。スポーツにおけるセクシュアル・ハラスメントと虐待の長期にわたる問題は、ドーピングと女性の出場資格の問題と並んで主要な懸念事項である。オリンピック産業はアスリートの生活と生業をコントロールする力をもつだけでなく、エリートレベルで起こる出来事は、幅広いスポーツと身体活動のすべての参加者に、特に政府の政策と資金調達の優先順位に関する事柄に大きな影響を与える。さらに、ジェンダーセクシュアリティに関連する社会的態度と慣習は、スポーツにおける男らしさと女らしさのメディア表象を通じて具体化され強化されており、あらゆる種類の身体的レクリエーションの参加者すべてに影響を与えるものだ。
 IOCと近代オリンピックはその時代の産物であり、19世紀の植民地主義、人種差別主義そして性差別主義の起源は消え去っていない。20世紀後半から21世紀にかけて、私が総称してオリンピック産業と呼んでいるIOCとそのすべての子会社は、外部の課題に対処し、その「最高権威」を維持することに注力し、より広範な社会的および文化的変化に対しては、限定的な努力しかしてこなかった。これらの変化が本当の改革をなすものなのか、表面的な飾り付けなのかは議論の余地がある。この金を浪費するスペクタクルを主催することへの関心が急速に弱まっている事態に直面し、より多くの招致を引き出そうとする近年の革新的な試みもまた同様である。実際に、21世紀という時代に見合うようにという外部からの強い圧力がなかったなら、IOCが自ら何らかの改革を始めたとは思えない。

 新型コロナ対策分科会の尾身茂会長は、今月8日午前の参院厚生労働委員会で、東京オリンピック(五輪)・パラリンピックをめぐる感染リスクの提言をIOCに伝えることを明らかにしました。「私はIOCに直接のコミュニケーションのチャンネルを持っていません」とした上で、「IOCにも日本の状況を知ってもらって、理解してもらうことが大事。どこに我々の考えを出すか考慮中ですけど、そこの出した人から、IOCにぜひ、我々のメッセージを伝えていただきたい」と語りました。 提言する時期は、これまで通り、「20日前後にオリンピック委員会は重大な決断をすると理解している。それよりも前に」としました。

 オリンピックの感染リスクに関する国会答弁は、菅総理をはじめ丸川珠代五輪相西村康稔経済再生相質問をはぐらかすことに終始する姿を国民がメディアで見ています本当はどんなリスクがあるのか知りたいので、尾身会長にはメディアに出て国民に説明してほしいと思います。

 コロナが蔓延してるのに、なぜ東京五輪2020を中止しないのか、謎は深まるばかりですが、五輪の歴史をみれば、それが容易に理解できることでしょう。

 

1968年のメキシコシティオリンピックは、反オリンピック抗議行動が最も早く行われた大会の一つである。何千人もの学生たちが、政府による都市整備のための浪費や、公的資金社会福祉事業からオリンピック関連事業への流用に反対してデモを行った。トラテロルコ広場での虐殺(トラテロルコ事件。メキシコシティオリンピック開催10日前の1968年10月2日の夜、反政府運動のために集まった学生たちをメキシコ政府が弾圧した)では、軍と準軍事部隊の手によって300人以上の学生が死亡し、200人以上が投獄、拷問され、数千人以上が逮捕、殴打された(Orozco,1998;Paz,1972)。「何があってもやり遂げなければ(the show must go on)」という精神で、国際オリンピック委員会IOC)はオリンピック開催を中止する動議を否決したが、その差はわずか一票だった。メキシコ政府は、過激派と共産主義の扇動者が、おそらくモスクワからの命令でその暴行を開始したと主張していたものの、実際にはメキシコ政府が約360人の狙撃手に学生抗議者の群衆に向けて発砲するように命令していたことが、2003年に極秘ファイルから明らかにされた(Doyle,2003)。それ以来、多くのオリンピック開催都市や国で反対意見への残忍な弾圧が繰り返されたが、抗議する人たちを抑止することはできなかった。
1980年代以降、住居問題支援組織(housing adovocates)、反貧困活動家、先住民、アスリート、環境保護主義者、フェミニスト、反人種差別主義者たちの団体による国際的なネットワークによって、効果的な反オリンピックとオリンピック監視活動は実施されてきた。世界貿易機関(WHO)の会議中にシアトルで行われた1999年の反グローバル化抗議行動は、社会正義のための団体の多様な連携の架け橋となり、バンクーバーリオデジャネイロを含む他の招致都市や開催都市での反オリンピック活動家たちにとって、活動を阻止する上でのモデルとなった。市民ジャーナリズムはこの時期に始まり、シドニー2000では、オリンピック開催都市で最初の独立メディアセンターが運営された

 こうした活動家たちの連携は、オリンピック開催に実際にはどのくらいの費用がかかるのかについての一般市民の意識を高め、また将来の開催地として選ばれた都市においては、オリンピック開催がもたらす最悪な形の社会的、環境的、経済的損害を唱えた。オリンピック産業が広報活動に多額の予算を投じていることを考えると、これは明らかにダビデゴリアテに立ち向かっている状況(「ダビデゴリアテ」とは、旧約聖書の「第一サムエル記」第17章に記されている少年ダビデと巨人ゴリアテの物語を指す。現代では、小さく弱い者が大きく強い相手に立ち向かう状況を指して使われる)だが、ゴリアテが時折大きな敗北を喫している。反オリンピックとオリンピック監視団体は、社会的、経済的、環境的な負の影響を記録し、徹底的に研究した内容を出版物として作成してきた。カナダのトロントとオーストラリアのメルボルンにある「サーカスではなくパンを(BNC)」によって作成された反招致本は、その一例である。2000年以降に登場した活動的で影響力のある団体としては、「NOOOOO・ア・ラ・バルセロナ・オリンピカ(NOOOOO a la Barcelona Olimpica)」、「トリノ2006ノリンピアディ委員会(Turin 2006 Nolimpiadi Committee)」、ヘルシンキの「反オリンピック委員会(Anti-Olympic Committee)」、「ノー・オリンピックス・アムステルダム(No Olympics Amsterdam)」、長野の「オリンピックいらない人たちネットワーク」、シドニーの「反オリンピック同盟(Anti-Olympic Alliance)」がある。

 調査報道ジャーナリスト、特にアンドリュー・ジェニングス(Jennings,1996)、シムソンとジェニングス(Simuson & Jennings,1992)、そして1980年代のIOC収賄の噂を追跡調査した他のジャーナリストらは、オリンピック招致のありかたの倫理性と開催都市や国におけるより大きな社会的・政治的問題を問うという先駆的な仕事をしたベテランのIOCメンバーであるマーク・ホドラーは、「オリンピックの血の掟[オメルタ](マフィアなどの犯罪組織のメンバーが、組織の秘密を守るために沈黙する決まりのこと。沈黙の掟とも言う)を破った」唯一の告発者であり、それについてガーディアン紙のジャーナリストは、賄賂で票を買うことを「オリンピック・ファミリー」界の公然の秘密であるとうまく表現している(Carson,2006)。
リチャード・マンデル(Mandell,1971)の著書『ナチス・オリンピック』は、1936年のベルリンオリンピックの壮観な催し物と儀式化された祭典、そしてそれ以降のすべてのオリンピックに見られる国歌、国旗、得点制度、順位付けされた表彰台、メダル(特に国の総メダル数)といった「競い合う愛国心」との間の連続性を示す研究に新たな方向性を開いた。今日でも人気があり、その大部分は問題にされていないオリンピック神話に対してマンデルは異を唱え、このイベントが「平和的な理想主義」につながると信じることは「ばかげている」と述べた(Mandell.1971,p.263:Kruger & Muray,2003も参照のこと)。古代オリンピックの地で太陽を使って炎を灯す儀式の神話性に焦点を当てた、聖火リレーについてのお決まりの報道では、この起源がナチス・オリンピックにあると取り上げられることは少ない
サイクスの先駆的な2017年の出版物『スポーツ・メガイベントのセクシュアル・ジェンダー・ポリティクス――徘徊する植民地主義』(Sykes,2017)は、2010年のバンクーバー2012年のロンドン2014年のソチオリンピックを含めた、スポーツにおける反植民地主義的な活動の事例研究である。その中でサイクスは、「ゲイとレズビアンのスポーツ活動家が、現在の想定を脱植民地化し、暴力、不正、死に至るグローバルなスポーツシステムからリンク[つながり]を解除すること」を呼びかけている(Sykes,2017,p.2)。
オリンピック産業の関係者が批判的な分析を書いたことはほとんどなく、内部省の学術研究者が鋭い批判を行う可能性も低い。その理由の一つには、組織委員会で働く人が守秘義務契約に署名するよう求められているということがある。[…]さらに、カッセンス・ノールは、「反招致運動が、ツイッターを使ってオリンピックを知るための情報の流れをコントロールした」と不満を述べ、彼女はこれを反招致派の「悪意に満ちたライブツイッターフィード」(特定の条件に当てはまる新しいツイートが現れると常に更新されるリストのこと。タイムラインともいわれる)だと表現している(Kassens-Noor,1694)。潤沢な資金を持つ招致委員会が、大部分をボランティアで運営している反招致運動団体にツイッター戦争で負けたのは、事実に基づいた議論の方が空っぽのオリンピック産業のレトリックよりも説得力があったからだと思われる

 

 ほかにも引用したい文章や段落はありますが、きりがありませんので、意味がわかる程度の抜粋にします。

ロマンティックな理想主義者」「スポーツ福音伝道者(あらゆる社会問題を解決するためにスポーツの可能性を無批判に推進する研究者や実践者たち)」「新植民地の再配置の一形態」「スポーツの中に埋め込まれている偏った思想をもつ、自己制御的なメッセージを受け取り、内在化するために、より容易に組織化」「(2019年6月のIOC総会の際、IOCトーマス・バッハ会長が10ページにも及ぶ自画自賛のスピーチの中で語った)オリンピック・ムーブメントの普遍性、財政的安定性、商業的成功」「もし『クーベルタン男爵が私たちを見ている』なら、スポーツが世界平和に貢献していることを『非常に喜んでいる』はずだ、との見方を示し

そして、つい先日のことですが、JOCの経理部長が飛び込み自殺をしたというニュースが報道されました。覇権的なIOCが、コロナと同時に「権力は空っぽである」ことを露呈しています。

(2021年6月10日)

本の花束(3)高井としを『わたしの「女工哀史」』(1980、草土文化)

 この本は、高井さんが七八歳のときに出版された自伝です。「女工哀史」という言葉は誰もが知っている、細井和喜蔵『女工哀史』(1925、岩波文庫所収)が出版されてからです。

  わたしはこの本は読んでおらず、幼いころテレビドラマ『あゝ、野麦峠』を観た記憶が朧げにあります。大正末期から紡績業が盛んになり、高度経済成長に合わせて日本の産業は電機・機械工業に移っていきます。都会に製糸工場や紡績工場がどんどん作られ、田舎(貧村)から来た女の子(十五~二十五歳)たちが不潔で劣悪かつ過酷な環境で働かされ、しかも低賃金で、乏しい食事で身体は徐々に衰えていきます。当時の紡績女工は半奴隷状態であり、ある女工結核で死に、ある女工はもっといい働き口がないかと逃亡するという、労働を搾取する物語でありました。高井としをさん自身も、その時代のなかにいました。

 久保さんの読後感はこうでした。「朝鮮人女工はさらに劣悪な条件で働かされ、日本人には口をきいてもらえないような差別的仕打ちをうけていました」「それをみた十二歳(ママ)の少女は、毎晩のように朝鮮人女工たちの部屋にあそびにいきました。そして、朝鮮の乙女みたいに髪を三つ編みにあんでもらったりされるほどまでに、少女は朝鮮人女工たちとすっかり心をかよわせ合うまでになったのです」「少女はそれ以来、そのながい一生のすべてを弱い者いじめとのたたかいでつらぬきとおしたのでした」。「炭焼きの子として生まれ、小学校も三ヵ月しか行けなかった子供時代のことから、女工生活、細井和喜蔵との出会い、晩年の全日自労での活動までを、まさに地の塩として生きぬいてきたひとだけがもつことができる爽やかさで物語っています。サヤ豆を育てたことについてかつて風が誇らなかったように――という中野重治の詩句がありますが、この本は、風のような女性が書いたのです

 毎月連載という文字数の制限がありますが、これでは簡潔すぎてちょっと物足りない、とわたしは思いました。岩波文庫版「わたしの『女工哀史』」(2015年)巻末の解説で、文芸評論家の斎藤美奈子さんはかなりの紙数を割いて、としをと和喜蔵が出会ったこと、本書が出版された経緯や、日本の現代史の事件」「暗部」の顛末を詳細に書いています。ひじょうに大事なことなので、今回は斎藤さんの文章を引用します。

女工哀史』および「わたしの『女工哀史』」は、近代日本の繊維産業抜きには語れない。明治から昭和戦前期にかけて、繊維産業は日本経済の屋台骨を支える一大輸出産業だった。とりわけ第一次大戦後、繊維産業の拡大志向と寡占化は進み、それは一九二〇年代に頂点を迎えた。
 日本の繊維産業は①蚕の繭から生糸をとる「製糸業」、②綿花をつむいで糸にする「(綿)紡績業」、③綿糸や毛糸を織って布にする「織布業」の三部門に代表される。いずれの分野も労働者全体の七~八割が女性で、彼女らの多くが農山村からの出稼ぎ労働者だった。
女工哀史』の出版から約五〇年。高井としをに新たな光を当てたのは、岐阜県の聖徳女子短期大学(一九九八年から岐阜聖徳学園大学短期大学部)の「現代女性史研究会」だった。同研究会は一九七三年に発足。聖徳女子短大の女子学生と教職員十数名からなる自主サークルである。
 当時、聖徳女子短大ほか岐阜県内の女子短大には、午前、午後、夜間の三部制をとり、三年で卒業できるコースが設けられており、県内の紡績工場で働き、寄宿舎生活をおくりながら短大に通う「働く女子学生」が多く学んでいた。研究会の学生メンバーも、そんな「紡績女工兼学生」ともいうべき女性たちだった。
 同研究会の指導的立場にあったのは、当時、聖徳女子短大の教員だった杉尾敏明である。『女工哀史』の学習会などを続けていたころ、伊丹市の全日自労(全日本自由労働組合)を介して高井としをの存在を知った杉尾と研究会のメンバーは、伊丹市のとしをのもとに足しげく通い、詳細な聞き取りを行った。紡績工場での労働という同じ体験を持つ者同士、女子学生たちはとしをに共感を寄せ、またとしをも心を開いて、自身の半生をあますところなく語った。
 この聞き書きを中心にまとめたのが、高井としをが語る『ある女の歴史』全五冊およびとしをの詩歌集『母なれば働く女性なれば』全三冊(いずれも現代女性史研究会編・発行、一九七三~七六)である。各巻三十ページほど。書店には並ばない自費出版物ながら、朝日新聞の家庭欄(一九七三年十月二四日)ほか多くのメディアで紹介されるなど、『ある女の歴史』は大きな関心を呼んだ。
 歴史学者中村政則も『ある女の歴史』に刺激を受けたひとりである。自らも伊丹のとしをを訪ねて聞き書きを行った中村は、『労働者と農民』(一九七六年、日本の歴史29、小学館)に「『女工哀史』異聞」と題した一項をもうけ、本書巻末の詩(『「女工哀史」後五〇年!』)とともに、一労働者から稀有な活動家に育った彼女の半生を紹介。高井としをは近代史を学ぶ人に広く知られるようになった。
 こうした経緯を経て、一九八〇年、『わたしの「女工哀史」』は出版された。『ある女の歴史』に収められたとしをの語りや文章を単行本用に編集し直し、出版に尽力したのは、その後、阪南大学に移籍した杉尾敏明と、草土文化の編集者だった林光(みつ)だった。本は評判となり、四刷まで版を重ねる。としをは各地の講演会に招かれたり、ときにはテレビ出演もした。一九八三年には同じ『わたしの「女工哀史」』のタイトルで「女性の自画像」シリーズ(ほるぷ出版)の一冊にも加えられた。
 それから三十数年が経過している。
 高井としをだけでなく、細井和喜蔵の名も風化しかけている今日、この本から「事件」の匂いをかぎ取ることはむずかしいだろう。
 しかし、『女工哀史』にまつわる重要な問題なので、以下、あえて記しておきたい。本書のベースとなった『ある女の歴史』は思わぬ波紋を広げ、図らずも『女工哀史』発刊後の「暗部」を明るみに出すことになったのである。
 ことは『女工哀史』の「正史」から高井としをが消された理由にもかかわる。
 本書一〇七ページ「内縁の妻」の項を参照されたい。「細井和喜蔵氏未亡人ご乱行」と新聞に書かれた三日後、改造社に印税の相談に行ったとしをは、社長の山本実彦から「内縁の妻」であることを理由に印税の支払いを断られ、また藤森成吉らに再婚も反対されている。抵抗むなしく、結局、印税相当額は遺志会に入ることになった
『ある女の歴史』のそれに該当する箇所を読んで反論したのが、ほかならぬ藤森成吉だった。当時、藤森が会長をつとめていた日本国民救援会の機関紙(「救援新聞」一九七五年十一月五日)に、藤森は「無名戦士之墓前史」と題する激烈な批判を載せている(引用は『ある女の歴史(その5)』への再録による)。
<高井としお(ママ)という女性を、おそらく読者の大部分は知るまいが、これは細井和喜蔵の同棲者で、彼の死後ほとんどすぐ高井という人物と結婚し、以後高井姓を名乗っている。現在七十三歳の老女である>としたうえで藤森は書く。<なぜ遺志会をつくったかというと、前期の如くとしお(ママ)君が早速高井氏と結婚した上、原稿料や印税を湯水のごとく浪費しだしたからで、それでは折角の印税も死んでしまうのを恐れたからである>。としをの発言からも彼女が<細井の遺志を継いで解放運動に使おうなぞとは微塵も考えていなかったこと>は明らかである。<遺志会は、こういうとしお(ママ)氏に反撥(ママ)してつくられたものだから、もちろんとしお(ママ)氏を会員に入れていない>。和喜蔵の遺書も彼女が<そういう物を持っているのは荷厄介だからといって放棄し、代わってぼくが何年間も保管した>のであり、<細井の遺骨を第一号として、「無名戦士乃墓」をつくり、戦後国民救援会の要請に応じて会に寄付したのである>。
 藤森は、遺志会が自分の意向でつくられたとするとしをの認識に異を唱えているのだが、要は「おまえの素行が悪いから、われわれが印税相当額を管理して、解放運動の役に立ててやったのだ」という話である。今日の観点からみて、これがきわめて不当な判断であるのは言を俟たないだろう。彼らがとしをから印税を奪った理由は「正式な妻ではなかった」「入った金を乱費した」「別の男とすぐ結婚した」の三点だが、いずれも彼女から印税を取り上げていい理由にはならない。
 遺志会がつくられた経緯を藤森の説明ではじめて知ったとしをと研究会は、驚いて言葉もなかったらしい。本書では<婦人がこんなに無権利だったことも知らなかった>などのぼかした表現になっているが、としをがこの件にかんして納得していなかったのも事実であり、自分こそが和喜蔵の継承者だとする本書巻末の詩(「『「女工哀史」後五〇年!』)は、そのような無念さを越えた上での言葉なのだ。
 現代女性史研究会の会員で、当時、聖徳女子短大の教員だった高橋美代子は、藤森ら関係者の主張を詳細に検討し、遺志会の判断を<日本の民主運動にとってまったく悲しむべき汚点である>と述べている(『ある女の歴史(その5)』)。
『ある女の歴史』の先駆性は、第一に女工哀史』の裏面史を含めたとしをの人生を詳細に掘り起こしたこと、第二にとしをを「『女工哀史』の共作者」と位置づけ、不当に軽視されてきたとしをに積極的な詳細を与えたことだった。<女工哀史』はまぎれもなく、和喜蔵ととしを氏の共同・共作であり、その権利は守られるべきであり、たとえ「遺志会」といえどもこの権利を侵害することは許されるべきことではない>(『ある女の歴史(その2)』とする杉尾敏明や高橋美代子の判断は至当だろう。
 無名戦士乃墓は、現在も青山墓地の一角に建ち、毎年盛大な慰霊祭が行われている。この墓碑の歴史的、今日的な意義を私は否定しない。しかし、「『女工哀史』の印税によって建てられた」という「美談」の裏に、以上のような事実があったことは記憶にとどめておくべきだろう。本書は『女工哀史』の成立前史とともに、曖昧にされてきた『女工哀史』発行後の歴史を知るうえでも、貴重な証言といえる。

 引用部分と重複するのですが、もう少し詳しく書いておきます。高井としをは十歳で紡績女工になり、労働運動を通じて細井和喜蔵に出会い(事実婚)、事実上の共作者として夫・和喜蔵の執筆を支えました。『女工哀史』の「自序」において和喜蔵は<生活に追われて追われながら石に齧りついてもこれを纏めようと決心し、いよいよ大正十二年の七月に起稿して飢餓に怯えつつ妻の生活に寄生して前半を書いた><女工寄宿舎のことについては、寄宿舎で生活して来た愚妻の談話を用いた>と明かしています。また、関東大震災の苦難のなかで<妻が工場を締め出されてしまって、たちまち生活の道は塞がれた。と、どんなに気張っても石に齧りついても書けないことが判った>とも書いています。

 和喜蔵がとしをとの結婚後に『女工哀史』の執筆に着手したこと、執筆と生活の両面において、彼がとしをに全幅の信頼をおいていたことがうかがえる。
 和喜蔵に資料を提供し、自らの体験を語り、原稿を読んで示唆を与えたとしを。それは伝統的な「内助の功」の範囲をはるかに越えている。後に彼女が「『女工哀史』の共作者」と呼ばれるようになったゆえんである(『女工哀史』の出版からわずか一か月後、和喜蔵は急性腹膜炎で倒れ、二八歳の若さで急死。加えて九月に生まれた長男も一週間後に死亡。二年後の一九二七年、としをは労農党の活動家だった高井信太郎と再婚(法律婚)、高井姓となったが、信太郎もまた空襲による火傷がもとで一九四六年一月に他界。戦後、としをは五人の子どもを抱えて働き続けた)。
 一方、外で働く妻のために、和喜蔵は執筆のかたわら家事一切を担当した。父を知らず、生活苦にあえぐ母や祖母を間近に見、しかも早くから自活していた和喜蔵は、ジェンダー規範に縛られない当時としては珍しい男性で、だからこそ女性労働者の立場に立つ『女工哀史』の視点が獲得できたのかもしれない。
 しかしながら、本書「わたしの『女工哀史』」が出版されるまで(あるいは本書の出版以後も)高井としをに正当な評価が与えられていたとはいいがたい。たとえば文学を通じての和喜蔵の知己・藤森成吉は、岩波文庫版『女工哀史』の「まえがき(1954年)」で『女工哀史』出版までのいきさつを次のように書いている。
<著者細井和喜蔵君は、三十数年まえの或る晴れた日に、突然僕をおとずれ、現行計画のための何十枚もの目録を見せて、ぼくの意見をたずねた。ぼくは一日もはやく実行するように勧めたが、それは三、四年後にようやく成った。/それをよむなり、すぐ改造社社長山本実彦氏へ持ち込み、買い切りの条件で発表の快諾を得、大正十四年七月に出版された。/その条件が示すとおり、この無名の一労働者の体験記録兼調査書は、出版社にとってひとつの冒険だった。ところが、ほとんどすべての関係者の予想に反して、それは異常な売れ行きを示し、何回となく版をかさねた>
 上記に言う「三、四年」の間を埋めるのが、本書で語られた和喜蔵ととしをの生活だったといえるが、しかし、ここに高井としをの名前は一切出てこない。いや、名前が出ないだけならいい。<重版とともに、山本氏の好意で印税相当分が常に細井和喜蔵遺志会(彼の異友たちによって組織された会)へ渡され、紡績や製糸産業の労働者の解放運動のためいろいろ役立った>とはどういうことだろうか。
 そう、後の夫となる高井信太郎が<紡績で深夜業したり、女給までして苦労したのはなんのためなんだ。細井君が死んだら当然本の権利はあなたにあるのだ>と憤慨したように、としをに『女工哀史』の印税は入らなかったとしをは長い間、消されていたのである

 こういう立場に立たされた悲運な女性たちは世界中にいます。なかでも有名なのがカミーユ・クローデルでした。レーヌ・マリー・パリス『カミーユ・クローデル』は映画の原作であり、著者はカミーユの弟ポール・クローデルの孫にあたります。
 カミーユオーギュスト・ロダンの弟子であり愛人でした。家族の関係も複雑で、二人が出会ったとき師匠のロダンは五九歳、カミーユは十九歳でした。彼女は彫刻の才能に優れていましたが、ロダンと別れた後、精神に異常を来たします。和喜蔵が生きていたら、法律婚をしていたら、としをはこんなに苦しめられることはありませんでしたが、ロダンは意図的かつ確信犯的にカミーユを苦しめていました。彼女の生涯についてはまた紹介する機会があるので、この辺にしておきます。

 斎藤さんの解説は、「むしろ『女工快史』と呼びたい」と締めくくっています。「高井としをの生涯に一貫しているのは、その驚くべきバイタリティ」「自身の意見を表明せずにはいられぬ正義感」「誰に対してもものおじしない態度」「『弁護士』というあだ名がついた少女時代から、生活密着型の真っ当な要求をかかげ、ねばり強く交渉し、勝ったり負けたりしながらも、最後は確実に成果を出す」。

 本書の第一の意義は、やはり細井和喜蔵の横顔と『女工哀史』の舞台裏を伝える貴重な史料である点だろう。二八歳で夭折した和喜蔵の人生には不明な点が多く、『わたしの「女工哀史」』以上に詳しい史料はない。「遺志会」の一件も含め、不当な評価を受けていたとしを自身の復権という意味合いも大きい。
 第二には、しかし「細井和喜蔵の妻」という冠を外しても、本書がひとりの女性の傑出した一代記である点だ。戦前は女工として働き、戦争を生きぬき、戦後は日雇い労働で子どもたちを養う。それは昭和の女性労働者の典型的な人生だったともいえる。一九七〇年代は女性史研究がブームになり、また歴史研究におけるオーラル・ヒストリー(文献ではなく口述による歴史)の重要性が認識された時代だった。とはいえ女性の自伝や評伝のほとんどが、高い教育を受け、目に見える業績を残した人物に偏っていることを思うとき、本書の存在価値はいっそう明らかになるだろう。
 二一世紀の今日、日本の労働環境は悪化の一途をたどっている。組合運動にも往時の勢いはなく、「格差社会」が進行中だ。高井としをの人生にはしかし、苦境を切り開くためのヒントが詰まっている。<かっこいい 理くつはいわぬ母たちが 一ばん先に座りこみに行く>というとしをの歌は印象的だ。

 彼女のことを久保さんは「風のような女性」と表現し、斎藤さんは『女工快史』と表現します。どのみち着眼点や表現の違いはありますが、相通じるところもありますね。

(2021年6月4日)

本の花束(2)関千枝子『この国は恐ろしい国(1988、農山漁村文化協会)』

 今年2月、88歳で死去したノンフィクションライター、関千枝子さんの最後の著書『続ヒロシマ対話随想』が3月に発売されました。親交のあった作家で被爆者の中山士朗さんと書き上げ、生前に原稿の確認まで済ませていたそうです。

 13歳のときに広島で原爆に遭い多くの同級生を失った関さんは、「死ぬまで書き続ける」という言葉通り、亡くなる直前まで戦争を知る世代としての思いを綴りました。生涯現役のジャーナリストでした。

 裕福な家庭に生まれ、読書好きな少女だった関さんは、1944年、父の仕事の関係で東京から広島に移り住み、旧県立広島第二高等女学校に通いました。45年8月6日、当時2年生だった関さんは体調不良で欠席していましたが、同級生たちは広島市雑魚場町(現・中区国泰寺町)で、空襲で火災が広がるのを防ぐために建物を取り壊す「建物疎開」の作業中に被爆します。爆心地から1.1キロの場所にいたことで、39人中38人が亡くなりました。関さんは、学校を休んで助かったという負い目、生き残ったことの重荷を抱きながら、新聞記者となりました。1976年、遺族の集いで悲しく痛ましい遺族の話を聞き、級友の被爆記録を残すことを決意して、級友の足取りと最期を克明に追った『広島第二県女二年西組』を1985年に発刊し、日本エッセイスト・クラブ賞を受けました。他に『ヒロシマの少年少女たち』などの著作があります。

 その関さんの労作のルポルタージュ『この国は恐ろしい国―もう一つの老後―』は、日本の低所得者層、つまり母子家庭の母親たちを丁寧に取材しています。

 

「関さんの報告で私がとりわけ驚き、そして恐怖すら覚えたのは、札幌市白石区の福祉事務所の事例でした。四人の未成年の子を持つ三十七歳の家庭の母親が、勤めのパートの給料ではとても足りずに生活保護申請をしたら、実態調査に来た保護係が、まずレンジやステレオがあるのは支給の支障になるからというのです。レンジもステレオも買ってから十年もたっているものだから売れないだろう、と答えると、“他人にやってでも処分すること”といい、そして、“売って金になるものはまず売る。すべて売る。身体もね”と付け加えたのでした。その人の離別した夫のことや、親類のことなどを問いただし、結局は、申請の辞退届を書かせたのです」

「この話は、1987年に、ガスもとめられ寒さの中で餓死したある母子家庭のことを調べていた際に、関さんが直接本人から聞いたものですが、売春を示唆する福祉事務所とは、なんとグロテスクな存在なのでしょう。このことと同時に私が本当に怒りを禁じ得なかったのは、福祉事務所が保護家庭どうしで監視させあい、密告を奨励しているという事実でした。受給者が、どうしても役所や係によく思われたいとなりがちな心理的弱みにつけこむのは、全く卑劣というほかありません」

 わたしが最初に聞いた“生活保護の都市伝説”は小学校の教員からでした。夏、どんなに暑くてもクーラーは買えない、冬、どんなに寒くても石油ストーブは買えない、というものでした。

 いまから思えば、「生活保護になったらどうしよう…?」と無意識の恐怖を植えつけるものでしたが、11年前、脳梗塞による片麻痺言語障害の後遺症のため、長期入院で働けないので、生活保護申請をして受理されました。

 確かに、月々の生活保護費で一括でクーラーを買うのは無理ですが、少しずつ貯金したら何とか買えました。単身療養生活は不便ではありますけど、いまはネットが使えるから便利なものです。とはいえ、月々の主な経費はPC付属品費や通信費ですから痛し痒しで、経済的に苦しい日々が続いています。昔は欲しいものがあればぽんぽん買いましたが、いまでは何を買うのにも躊躇します。受給日は月頭にあり、月末の家計は必ずといっていいほど、まるで火のように燃えています。

「福祉事務所」というのは、各自治体の生活福祉課の職員だと思います。わたしのような重身体障害者には、「あるものは売りなさい、働きなさい」「ハローワークに行きなさい」などと言ったことは一度もありません。

 これは生活保護受給者の一所感ですが、時代や地域、家庭の事情や職員の個性はさまざまですから、一概には言えません。特に精神疾患者や難病者、母子家庭の母親など「働けそうに見えるが働かない/働いてはいるが非正規で最低賃金(実は怠けている)」の人たちのほうが、職員に対するプレッシャーや、社会に対する偏見が強いのかもしれません。

「関さんは、この本の末尾につけた経済学者久場嬉子さんとのとても貴重な対談『“買う福祉”を買える人々・買えない人々』のなかで、『本当に困っている当事者である人々、たとえば母子家庭のお母さんたちは声を上げるひまがない。くたびれはてて声を上げる余裕がない。考えることもできないほど追いつめられている。……本当に困っている人たちは声を上げることができないんです』と語っていますが、全くその通りだと思います。

 この本のなかにも指摘されていることですが、<底辺の所得者層>、とりわけ生活保護を必要とする未婚・離別の母子世帯の実際はほとんどマス・コミで語られないし、話題にする時は、歪んだ仕方でしかとりあげません。しかし、シモーヌ・ヴェイユがいうように、社会の本当の姿は、弱者・少数者の現実に最もよく写し出されるものであり、私たちは『声を上げることができない』『本当に困っている人たち』の存在と現実を通して、はじめて社会を見るリアルな眼を獲得することができるのです」

 生活保護受給者を見事脱出したのはいいけれど、その代わり税金や健康保険料など、払えるはずの金を払えなくて、絞り取られ、疲れ果てて、また生活保護受給者に戻って来たという話を聞きます。長い間「生活保護費ではなくベーシック・インカムを!」と唱える人たちがいるにもかかわらず、政府は生活保護受給費を3段階(3年間)に分けて削減しようとしています(いまは2年目です)。わたしたち生活保護受給者はいったい、いつこの状況から抜け出したらいいのでしょうか。本人たちは「経済的に自立したい」と言いますが、生活保護システムは、そう簡単に自立させてはくれません。

「私は同情の必要ということから、このことを申上げているのではありません。弱者・少数者が痛めつけられる社会は、<ふつう>の人びともけっして幸福になれないのだということを、私たちは深く認識する必要があるからです

 もうひとつ、付け加えておきましょう。多くの日本人は親米派だとわたしは思います。わたしも「自由の国」としてアメリカが好きですが、その「自由」は表裏一体です。つまり、貧富の差が大きいのです。たとえば、すべての法人資本の半分が人口の1%によって所有され、その一方で、すべての家族のうち81%がまったく財産を所有していないのが、アメリカの現実です。

 米国労働省の統計によっても、極貧層の割合は29.9%(1975年)→38.1%(1995年)になり、人口では3650万人が、4人家族で年収192万円以下であり、一方、資産10億ドル以上の富豪は、1997年に前年の135人→170人に増えてます(米経済誌『フォーブス』による)。しかも福祉・教育などの社会保障費は削られ、医療費を払えず医療を受けられない人間が人口の7分の1の3500万人に達するだろうと言われています。

 マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画『シッコ(SiCKO、2007、アメリカ)』(日本のキャッチコピー「テロより怖い医療問題」)を観た人は、すぐわかると思います。

「経済学者の降籏節雄さんは、アメリカは『強いヤツは勝て! 弱いヤツは死ね!』という社会なのだといっていますが、アメリカ資本主義は、生命と労働を軽視し、失業者をつくり、弱者・敗者を切り捨てる、腐敗と投機の経済そのものにほかなりません。そして、そのような現実を合理化する弱者切り捨ての論理が、いま突然日本でも大合唱のように叫ばれはじめている、<自己責任>という言葉に集約されているのです。ちょっと注意すれば分かることですが、アメリカを褒め讃えるエコノミストたちが、なにかとよくふり廻すのが、この<自己責任>という単語です」

私たちは、カネと力のある者にとって、大変都合のいいこの言葉にダマされてはいけません。日本の政府も企業も、<自己責任>を強調しつつ、日本社会をアメリカ的な方向に――富める者の天井をとり、貧しい者の床板をはずすことを推し進めようとしています

 今年2021年はコロナ禍第4波です(しかも悪化しているから日本には渡航禁止を言い渡されています)。もちろん日本政府は認めていません。感染力の強い変異株が猛威を振るっているにもかかわらず、コロナ対策は相変わらず<国民の努力>のみでうんざりです(今年1月に深刻なパンデミックに遭ったイギリスは、1:ロックダウン、2:PCR検査、3:ワクチン接種を徹底的に行ったので九死に一生を得ましたが、日本はどれもやっていません)。コロナウィルスは急速にバージョンアップしたのに、日本政府はまだインストールもされてません。なんと機動性の低い日本政府!

 飲食業や各エンターテイメイント(ライブ・演劇・コンサートなど)の営業停止で失業した人たちも多くいることと思いますが、失業者の人たちに日本政府は保証金は一切渡しませんでした(財務省は国民に保証金を渡すのに反対しました)。税金は搾り取るのに保証金は一切渡しません。なんと吝嗇な日本政府!

(経済学者の森永卓郎さんは、「補償金を渡さない政府は、個人企業や零細企業、中小企業が潰れるのを待っています。やがて大企業だけがぐんぐんと成長し出すようです。まるでコロナ・ショック・ドクトリンです」と言っていました。わたしもそう感じます)

 かつて「一億中流社会」だった国は、もうありません。もしも関さんがまだご存命ならば『この国は“もっと”恐ろしい国』を書いてくださったのかもしれません。

            *   *   *

*注:マルガレーテ・ブーバー・ノイマン『第三の平和(1954、共同出版社)』、崔承喜『私の自叙伝(1936、日本書荘)』は、都内図書館で所蔵してないため読むことができませんでした。国会図書館ならまだ希望がありますが、コロナ禍が下火にならないとおそらく行けないでしょう。ひじょうに残念です。引用文だけでもそのうち紹介します。

(2021年5月30日)

母の不在、<娘>の不在

Girl(2018、ベルギー)』鑑賞。途中で観るのが耐えられなくなり、途切れ途切れに鑑賞終了。

 この作品の成り立ちは複雑で、ルーカス・ドンは監督を務め、脚本はドンともう一人が執筆した。ドンが作品の着想を得たのは、ベルギー出身のトランスダンサー、ノラ・モンスクールとの出会いであり、おそらく監督がノラをインタビュー取材したものと思われる(ノラ以外にもトランスジェンダーや医療従事者に取材を行っている)。したがって、どこまでがノラの実体験(事実)なのか、どこからが監督の脚色・編集(想像)なのかを判別しがたいが、どちらにしても作品が何を語ろうとしているのかを、わたしは探りたい。

            *  *  *

 ベルギー出身のララは、ダンス学校へ通うためフラマン語圏の街にやってくる。ララは15歳、弟は6歳で、ララのトランスについて理解のある父親がいる。母親は離婚したのか死別したのかは語られてないが、ララは母親代わりに弟の世話をしている(ここで「ヤング・ケアラー」の問題も起こるだろう。ララは自分自身を充分にケアすべきである。経済的余裕があれば弟の面倒をみるシッターを雇えばいいが、ララはそれを断っているかもしれない)。
 父親はララのホルモン補充療法(Hormone replacement therapy、HRT)も、これから行う予定の性別再判定手術(sex reassignment surgery、SRS)も応援しており、ララが主治医と話すときには必ず付き添っている。彼はララに「何か話すことはないか?」と常々言っているが、ララは「大丈夫」と無表情に答える。
 しかし、父親は何の疑いもなく、ララの言葉を文字通りに受け取っている。ララと父親の関係がいつからこうなったのかは不明だが、ララの本心は父親にはわからない。父親が鈍感なのか、ララが言葉足らずなのか(あるいはララは父親に心を閉じているのか)、曖昧だ。
 父親にできることは経済的問題を解決することで、ララの心理的精神的ケアをすることではない。実際、彼にはそれができないのだ。父親は家で恋人らしき女性と一緒に夕食をとるが、それをララは目撃している。なのに父親は一切気まずいそぶりも見せない代わりに、彼女をララに紹介しない。ララもよそよそしげだ。いったいなぜだろうか。

 

しかし実際には、彼は容易に威圧されはしなかった。彼は安全を破壊するために二つの方策を用いた。ひとつは他人に対する外面的な従順である。第二は彼の心の中で他人へと振り向ける精神的メデューサである。この二つの方策を併用することによって、決して露わになることのない彼の主体性、それゆえ決してそれ自体として直接表現されることのない主体性は、安全に守られるのである秘密であるから安全なのだ。どちらの方策も、吞み込まれ、非人格化されるという危険を避けるためである.
R・D・レイン『引き裂かれた自己』第3章 存在論的不安定、1965)

 以上は、28歳の男性の述べたことである。彼は既婚者であり、彼がいつも口にする不満は、自分は「人間」になることができないということであった。彼には「自己がなかった」。「私は他人に対する反応にすぎないのです。私にはアイデンティティというものがありません」。「私は大海に漂う木片にすぎません」。
 わたしは、統合失調症の疑いのある彼とララを混同するわけでは決してないが、この引用は、ララの心象風景と似たところを感じる。ララはダンス学校であったクラスメイトの無遠慮で残酷な言動で傷つかないはずがなかったし、その事件を相談する父親も、心を正直に打ち明ける当事者団体もララにはなかった。ララは孤独で孤立していた。いつのもようにララは、他人の心ない言動に平気なふりをしていた。だがある日突然、我慢の限界がきた。グラスの水が表面張力で満たされすぎているのを、ある瞬間から、グラスから水が零れ出すように。
 この作品はシスジェンダーの批評家には「概ね好評」だったが、トランスジェンダーやクイアの批評家には厳しい批判が多々あった。具体的に、英国映画協会のウェブサイトでトランス女性批評家キャシー・ブレナンは、「上映時間中、ドンのカメラは嘆かわしい好奇心をもってララの股間に執着する」「『Girl/ガール』のカメラの眼差しはシスの人物のものである。それはシスの観客が私のような人を見るようにちょうど一致する。彼らは私の顔に向かっては微笑んでも、内心では私の股間には何があるのか思案しているかもしれない」と記した。性器の切断場面については、「本作が描写する資格を得ていない、深刻なトラウマのシーンである。ドンの性別違和描写は性器に固執しており、トランスの少女の内面の心理的な様相について何ひとつ明らかにしない。それを一つの自傷行為に矮小化してしまうことは、映画的蛮行である」「トランスの身体に対する不快なまでの執着」。研究者エロイーズ・ギマン=ファティは、「本作の視点は『シス中心的』で『おそろしく男性的』であるとし、『映画の主体であるべきララのキャラクターが客体となってしまった』」と述べた。ベルギーの団体ジャンル・プリュリエルのロンデ・ゴッソは、「これはこの国の現実、社会の連携、若者の貢献、私たちがこの11年の間にやってきたことのすべてをなおざりにしています。私たちの存在を押し出すのではなくむしろ見えなくしてしまいます」と語った。TheWrapのスティーヴ・ポンドは、映画は「突然そうでなくなるまでは静かな映画、極限の領域に踏み込む穏やかなキャラクタースタディ、受け入れられることにまつわる話かと思いきやそれがいかに不可能かの話になりかける痛ましいドラマ」であるとし、「終盤には、この静かな映画は恐ろしい苦痛と絶望の場所へ向かう」と記した。『ロサンゼルス・タイムズ』のキンバー・マイヤーズは、主人公の身体に重きを置く本作の撮影は「共感的というよりは搾取的に感じられる」と述べ、「最も問題なのは、映画終盤のショッキングな場面の無責任な見せ方である」「ドンの作品は技術的な面からすれば強力なデビュー作だが、この手の物語に必要な慈悲に欠けている」と記した。実際、ララはSRSの前に自分のペニスをハサミで切り取った。それも事前に救急車を呼ぶよう連絡済みだったのだ。
 ララが言わんとしていることはわかる。父親は頼りにはならない、と。
 この作品が監督の主観なのか、それともトランスにまつわる総合的な語りなのかわからないが、とにかくここで言えるのは、トランスの家族は機能不全家族だということだ。これはトランスに限ったことではないし、家庭の貧富の差は関係ない。裕福な家族でも夫婦・親子関係はすでに破綻していることもある。「家族神話」はすでに崩壊しており、家族(両親)が子どもに矛盾したメッセージを送り込み(ダブルバインド)、抑圧され、混乱しているのだ。
 トランスに限らず機能不全に陥った家族を持つ子どもは、ただちに逃げたほうがいい。「いい子」でいる必要はない。自分がいなくなれば弟はどうなるのか、そんなの知ったことではない。ただでさえ子どもは精神的にも身体的にも不安定だ。その不安定を、親が追い打ちをかけるのである。
 かといって、子どもには母親が必要かどうかもわからない。日本では最近になって母と娘の桎梏葛藤が台頭はじめたが、欧米では昔から問題になっている。その問題とは、母と娘が同じ身体を持っている(月経、妊娠、出産など)という説が主だ。父と息子のとの関係は問題がない。男同士なら安易に連帯できるが、父と<娘>の関係は問題以前である。父は母ほど敏感ではないし、母ほど先回りできはしない。

            *  *  *

 結局、ノラ・モンスクールはどうなったか。プロのバレリーナを目指した彼女は、コンテンポラリー・ダンサーになった(ある意味それはノラにとっての希望/絶望か、はたまた諦念/解放か)。西洋にとってのバレリーナは、日本にとっての歌舞伎のようなものだ。古典になればなるほど男女差別が激しくなる。特に女性は、身体的犠牲がかなり高い。トゥシューズに固定されたつま先は、傍目には美しいようでいて実際には残酷である。まるで白鳥が水面で優雅に泳ぐが、水面下では水かきを必死にかき回しているようだ。トゥシューズは中国の纏足と同様である。男性から見れば性的魅力は高まるが、女性がそれをするのはひどく苦痛だ。その違いがわかっていない。シス男性の監督がトランス女性についての映画を製作すべきではなかったのだ。

 話を元に戻そう。学生から時が過ぎて、少し大人になったララが歩いていくラストシーンである。そのBGMが『オン・ブラ・マイ・フ』だ。この曲は『ナチュラル・ウーマン(2017、チリ、ドイツ、スペイン、アメリカ)』のラストで主人公の歌姫マリーナが歌った。

この演出は、ドン監督が模倣したものか、あるいは別な意味を持つものなのか。
ナチュラル・ウーマン』では、マリーナの最愛の人オルランドが亡くなって、その喪失と哀しみの余韻を少しも味わわないまま、かつて二人で暮らした部屋を遺族から追い出され、オルランドの離婚した元妻に通夜にも葬儀にも来るなと言われ、オルランドのチンピラな息子と仲間に街から追放されそうになって、「私にもお別れを告げる権利がある」と抗い、やっとのことで葬儀場のオルランドを見て、焼かれるところから見守り、マリーナにとっての“別れ”をついに切り出した。それがナイトクラブで歌った『オン・ブラ・マイ・フ』である。オルランドとの愛の生活は、ペルシャ王セルセにとってのプラタナスの“木陰”だった。ただ、その“木陰”は、オルランドの死によって失われてしまう。いまは失われてしまったが、あのときは本当に“ナチュラル・ウーマン”になれた。オルランドと一緒にいると、本当に“ナチュラル・ウーマン”になれたの…あの“木陰”は本当に心地よくて、優しくて、愛しくて…

 百歩譲って、この作品におけるラストの曲を、ドンのオリジナルの演出(解釈)とする。プロのバレリーナになれなかったララは夢を諦めて、コンテンポラリー・ダンスの道に入った。同じダンスでも古典的なバレエの振り付けや様式は雁字搦めだし、コンテンポラリー・ダンスのほうが自分の思うとおりにやれる解放感がある。いまほど自由に生きられる瞬間はない…うう、なんとも苦しい解釈だ。語り部失格である。

            *  *  *

当たり前だが、映画には観客がいて、救済と癒しを求めている。ドン・ルーカスの失敗は、映画をドラマではなくドキュメンタリーにしたいと思っていたが、その切り替えが不十分だったことだ。彼はあらゆる面で“役不足”だった。<やりたいこと>と<できること>は違う。

 一方、FtMトランスジェンダーの残酷な末路を描いた映画ならある。『ボーイズ・ドント・クライ(1999、アメリカ)』だ。ネブラスカ州で強姦され殺害された実在の人物の生涯を描いている。観たときは相当ショックだった。救済も癒しもなく残酷な現実の闇の穴が恐ろしくぽっかり空いていた。同質の集団に“異形の者”がいた場合、そいつが生贄になることがすでにわかっている。わたしたち観客は、その恐ろしい現実をまざまざと“目撃”したのだ。

 

本の花束(1)アンナ・ラングフュス『砂の荷物(1974、晶文社)』

 ネットフリックスのオリジナルドキュメンタリー『最期の日々:生存者が語るホロコースト(1998)』はすでに観ましたが、ナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅政策についての9時間半に及ぶ証言映画『ショア(SHOAH、1985、フランス)』は、私はまだ観ておりません。いまならDVDで購入できるかもしれませんが、<すべての語り>を完璧に近い形で再現したテクスト『ショアー(1997、作品社)』を、近い将来に読もうと思います。
 その前に、ユダヤ人女性作家アンナ・ラングフュスの1962年にゴンクール賞を受賞した小説『砂の荷物』(女のロマネスク5)を、いま読んでいる最中です。ペーパーバッグだからと安心したものの、2段組でなかなか読みづらい。この読みづらさはいったい何だろうか。さっそく“参考書”を開きます。

「収容所という地獄の川を渡り、自己の内部が打ち砕かれたまま、現実の生に還帰しようという試みが結局は無残な破局を迎えてしまう女性を描いた、印象的な忘れがたい内面的証言の文学」

「作品としての『砂の荷物』の特徴は、すべてが暗示的にほのめかされ、そして突然、裂け目から鋭角的な断片的なイメージが突き出されてくるところにある」

「主人公のマリアという名前が、実は本名ではないというのも暗示的です。そのマリアという名前は、ポーランド抵抗運動組織のマリアンが、彼女のために作ってくれた偽造の身分証明書に記載されたもの」

「『強制収容所』のことも揺曳するぎりぎりのイメージで示されるだけですが、その示し方によって、強制収容所が生命だけでなく、人間の精神を押し潰し、魂をも殺戮してしまうことを見事に語っている」

 久保さんの理解は、おそらく正しいと思います。20年ぶりにこの小説を読み返した久保さんは、フォト・ジャーナリスト大石芳野さんの『[夜と霧]をこえて――ポーランド強制収容所の生還者たち(1988、NHK出版協会)』を思い出します。ナチス強制収容所を生きのびた人びとの体験と現在を日本人女性が記録した貴重な著書です。大石さんはその本の第1章で、「新しい病、強制収容所症候群」について、多くのことを書いています。大石さんは、かつて自分自身がアウシュヴィッツの囚人であり、そして戦後、「新しい病」である「強制収容所症候群」の治療と研究にすべてを捧げてきたクオジンスキ医師に導かれながら、「強制収容所症候群」に苦しめられているさまざまなひとびとに会っていきます。戦後も40年(2021年現在では、なんと76年!)以上経っているというのに、その人たちはいまだに完全な解放感がなく、神経過敏、不安、恐怖感、周囲の環境の不適応、絶え間ない自己分裂、他人への不信へと陥っていく――そして、時の経過とともに内面の傷は癒されず、その傷口は時とともに成長する、ということを知るのです。

 まず、久保さんが「暗示的」だと書きましたが、冒頭のアンドレ・ブルトンの引用文を出してみます。

「この辺鄙な浜辺に、おまえはただひとり辿りつくだろう。すると、おまえの砂の荷物のうえに、星がひとつ降りてくるだろう」

 タイトルにもなっている『砂の荷物』は、作者や登場人物の背景から考えて、「過去の重荷=無意味な重さ=強制収容所での計り知れない苦痛」であるとして、「星が降りてくる」のは、凄惨な体験をした被害者の頭上に知らず知らず、しかしそれは必然として、流星が爆発し炸裂するようなものです。このように引用文は直接的だったりもします。私がこう分析すると、なんかペラいですよね。
『砂の荷物』によってアンナ・ラングフュスがとらえようとしたのは、まさに大石さんが追及した「強制収容所症候群」そのものであり、そしてそこで決定的に語られているのは、戦後の状況そのものが「強制収容所症候群」を、むしろいっそう悪化させていくものだったということにほかなりません。

 久保さんは、「この小説は、再読を読者に要請する微妙さを持っています」と書いています。決して「難解」とは書いていません。ですから、もう一度読もうと思います。
 なお、アンナ・ラングフュスは第一作『塩と硫黄(1960)』、最後の作品『跳ぶんだ、バルバラ(1965)』の三つの作品を書いて、1966年に自殺しました。
「作者自身、マリアのように戦後の世界に根づくことができなかったのでしょう。しかし、すべての祈りから拒まれ、また、すべての祈りを拒みながら、その文学は、祈りそれ自身となっているのです

(2021年5月27日)

本の花束 はじめに

ホロコーストの生還者でノーベル文学賞作家のヴィーセルや、ユダヤ人女性作家アンナ・ラングフュスの本を調べていたら、久保覚『古書発見 ――女たちの本を追って(2003、影書房)』という名著をたまたま発見しました。
久保覚(1927~98)さんは『新日本文学』編集長(1984~87)で文化活動家、朝鮮芸能文化史研究者です。『花田清輝全集』(講談社)などの名著を世に送り出した名編集者であり、自由創造工房、宮沢賢治講座、群読(ひびきよみ)の共同創作などを通して市民の文化・芸術活動の理論化を目指していました。90年より、生活クラブ生協連合会発行月刊誌《本の花束》編集協力者でした。
『古書発見』は、この月刊誌に連載されたエッセイをまとめたもので、生活組合員の女性たちによる<本選びの会>を中心に、“生活者のための本の新聞”を目指し、独自の視点で本を選び、読者に手渡す活動をしてきました。とりわけ、女性創造者・活動家の埋もれた仕事に光をあて、女性の書手を発掘し、また無名の女性たちの共同創造活動をさまざまな形で提案し、応援してきたことは特筆しておくべきでしょう。その久保さんが、「埋もれ、見過ごされ、打ち捨てられた、しかし私たちにとっていま必要な<女たちの本>を再発見して書いたのが『古書発見』です。
 なぜ男性の久保さんが<女たちの本>の編集をしてきたか、女性たちの共感を抱かせ続けてきたかというと、実は在日韓国人朝鮮人で、高校中退の在野の苦労人でした。これはマイノリティ同士の知で集積した、まさに貴重で結晶のような本なのです。日本人男性エリート=マジョリティでは、この本の価値は見過ごされていたに違いありません。
 ロシア語の同時通訳者の米原万里(1950~2006)さんは読書家で有名でして、著書『打ちのめされるようなすごい本(2006、文藝春秋)』を読んだ私は文字通り打ちのめされたのですが、『古書発見』より少々イデオロギーに欠けるというか、言い換えれば、イデオロギーをより重視した本が現在の私にはひじょうにマッチしておりました。久保さんの読書量や知識量、博識さ、感性の鋭さ、先見の明はおろか過去の重大な事件にも気づかせてもらい、そのご恩返しに(といっても分不相応ですが)、『古書発見』のなかから私が再び<私たちにとっていま必要な《女たちの本》>を紹介しようと思っています。
『古書発見』はぶっちゃけ“ネタ本”であると同時に“参考書”ですが(この時代ではネタはスルーされてしまうかもしれませんが)、すでにネタとしてはひじょうに扱いづらい本たちを前にして、さらに参考書を開いて独自の解釈をしようというのですから、かなり高い目標を掲げたものだと、我ながら嘆息混じりです。なぜこんな高い目標になるのかさっぱり理解できません。かといって、単なる読書感想文では物足りないと思います。がしかし、完走できるかどうか心配ですし、たぶん引用だらけだと思います。読むだけでなく、自分でキーボードを叩いて血肉にしたいと思います。もちろん著作権使用許可はもらっておりません。もし著作権違反の苦情がきたら、このブログは速攻削除します。

(2021年5月27日)

私ってクイアだったの?!(今更)

 吉野靫『誰かの理想を生きられはしない』を読んで、改めて気づいたこと、わかったことがあったので、それを書こうと思う。

 30代の私は自分のセクシュアル・アイデンティティを「レズビアントランスジェンダーの交差点である」と決めたのに、10数年後、「…あれ? なんでこういうふうにしたんだっけか?」とド忘れしたのである。だが、この本を読んだときに、某イベントで「FtMトランスだったのが途中で止めた人」がマイクを取り、「自分のセクシュアリティ(今でいうならSOGI)は女性の二重否定だと思う」と言ったのを思い出したのだ。

 「女性の二重否定」とは、レズビアンは「自分が女性で、好きになる相手も自分のことを女性だと思っている(女性の二重の肯定)」が、自分を含めたFtMはそうじゃない…云々。その話を聞いて、「はて、私はどうだろうか?」とちょっと考えてみた。

 私はずっと自分のことを「女でも男でもない」と思ってきた。女性にも男性にも所属意識はない。見た目も同じで、身長は165㎝、体重は70㎏、肩幅は並みの男性よりも広い。髪型も服装もボーイッシュ。女子トイレに平気で入るが、並んでいるとジェンダーポリスらしき余計なお世話的な女性が「ここは女子トイレですよ?」と注意して、「女性ですけど何か問題でも?」と目を見てキレ気味に答える。

 自分で「女だ」と言うのはいいけれど、他人(国家とか戸籍とか世間とか)が「あなたは女だ」と決めつけるのはやめてくれ、と思う。ジェーン・スーが「自分で“おばさん”と言うのはいいけど、他人がフリーライドで乗っかるのは勘弁してくれ」とか、竹中直人が「自分でハゲと言うのはいいが他人にハゲと言われるのは腹が立つ」と言った。“おばさん”“ハゲ”は蔑称なので、蔑称を自分で名乗ってプライドを取り返すのはいいと思う。クイアと名乗る精神とほぼ同じである。

 性自認はOK、では性的対象はどうだろうか。

 30代までは女性(に見えるの)が性的対象だったが、いまでは肌のきれいな10代男子もイケるようになってしまった。性は可変なのである(「誰専」なわたし)。わたしの場合、性的対象が先行するのはジェンダー(社会的性役割)であり、その後セックス(身体的性役割)がくるから、自分でも不思議なほどクイアだと思っている。いまの時代で本当によかった。

一方、FtMトランスジェンダーとは何が違うのか。私は自分のことを「女でも男でもない」と思っているが、FtMは「自分は男だ」と思っていることだ。

「そうか、私はレズビアンではないな」と思い「トランスでもない」と思ったのである。それで「レズビアントランスジェンダーの交差点」ということになった。

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 もう一つ、ポリアモリーについて。mixiグループでは異性愛者(既婚者)ミックスで討論したが、今は分けて考えよう。

 ポリアモリーとは、複数の人たちと(性的なものを含めて)お付き合いをすることである。反対に「付き合う人はたったの一人」との信条を決めるのはモノガミーである。

 これは、パートナーに隠れてこっそり、というわけにはいかない。付き合う前に「非異性愛者/異性愛者だから」と宣言するように、「ポリアモリーだけど大丈夫?」との確認は必要だ。

 それゆえ、既婚者のポリアモリーは卑怯だ、と怒るのは当然である。誰も擁護しない。「浮気」であり「不倫」であり「愛人関係」である。あるときは冒険しておいて失敗したら(別れたら)暖かい家庭に戻る。キープはそのまま、でもたまには浮気したい(女房以外とセックスしたい)。浮気相手には「独身だよ」「いま妻と離婚争議中」とか何とか嘘ついて、自分の性欲だけをひたすら突き進む。「俺の浮気はいいが妻の浮気は絶対に許さない」という超わがまま、性風俗に金を払わない超ドケチ。まぎれもなく“なんちゃってポリアモリー”だ。もしかすると既婚者のポリアモリーは可能かもしれない(あえてそういう契約をしているかもしれない)が、たとえ女性であっても、そもそも異性愛者だから私はNGである。

 このことを混同して「ポリアモリーの非異性愛者は卑怯」と攻撃するのはやめてほしい。そもそも非異性愛者は婚姻不可能だし、たとえカップルで同棲してても実際(法的に)はシングルである。ポリアモリーなのは私と相手との性愛関係であって、他者に非難される謂れはない。

 九鬼周造という日本の哲学者がいる。彼の母親が妊娠中に岡倉天心と浮気するという幼少期の経験もあって、ドイツやフランスに留学したときは派手に女遊びをし、生涯独身で子どもはいなかった。代表作『「いき」の構造』では「原始偶然」「偶然を重ねれば必然である」などなど難解な言語と文章があるが、私は「偶然性(運命)」というワードにかけてみようと思う(まず『偶然性の問題』を読んで理解してから書け!)。

 婚姻制度は「偶然性(運命)を否定する」ものであり、日々の生活は安泰だが平凡で退屈だ。婚姻した後で出会った相手とは性愛の営みも重婚もできない。生まれたときからすでにこの制度(法)はあり、後で法を変えることは不可能に近い。だからといって運命の出会いを開くために常に独身でいるわけにもいかない。異性愛者たちがこぞって結婚相手を見つける熱心さには頭をひねざるをえないが、異性愛主義の熱烈な信者だから、すでに逆洗脳はできないと思う。

 50歳の私は独身だが、すでに「パートナーはつくらない」と決めている。部屋に誰かいたらウザいし、言語障害があるので喋ると脳が疲れる。二人でいるより一人のほうが気楽で安心。非異性愛者でよかったとつくづく思う。

最初は同性婚も関心があったが、考えるうちに「…あれっ? パートナーって何だろう…?」とゲシュタルト崩壊し、しまいには興味がなくなってしまった。同性婚は消極的に賛成だが、異性愛婚のように「一夫一婦制」になったら速攻で猛反対するし、そもそも戸籍制度に反対なのでやっぱり反対だわ。プライベートな関係を法律で一方的に決められるのは勘弁。相手と相談して決めればいい。カスタマイズできる関係が理想的である。

万が一、好きな人に出会えたら、その相手がポリアモリーだったら私は受け入れたい。逆にモノガミーだったら、私もモノガミーになろう。偶然の出会いは柔軟に、臨機応変になるものだ。

後は「偶然性の問題」を読んでからにする。

 

(2020年11月21日)